この「うける」という単語には、充てる漢字がないのだ。 「受ける」という漢字は、物を受け取る、受け渡す、といった意味だが、マンガやアニメがウケた・ウケない、という使い方は、オーディエンス(見る人・聞く人)の心に届いたかどうかの指標を表す言葉となっているのである。
ある日、手塚師匠からお誘いがあった。 「月さん、今日銀座に出るんだが、一緒にいかない」 「はいはい、行きます、行きましょう」 二つ返事で出かけたことがあった。
師匠に誘われて銀座に出たことは、二回ある。 一度目は、銀座四丁目の交差点にある三越デパートでのウォルト・ディズニー展だった。 二つ目が、SF作家の小松左京氏に会う、今回の外出だった。
時間通り、帝国ホテルのラウンジで待つこと五分ほど。 エレベーターから出て、まっすぐこちらに向かってきた人は、紛れもなく小松さんだった。
こちらに近づきざま、着席もしないうちから 「やあやあ、しばらく」 そしてすぐに 「手塚君のアトム、ウケてるねー」 だった。
師匠の返す言葉は、 「小松さんの『日本沈没』、うけてるじゃないですかー」 だったのである。
前半は、星新一さんがいい仕事をしている、つまりうけているという話や、うけている原因についてなど、作家のうわさ話が多かった。
どうやら会談の目的は、近々雑誌誌上で対談する予定のプレ・ミーティングだったようだ。 大作家がミーティングするのだから、さぞかし作家論とか芸術論になるのかと思っていたが、案外軽いおしゃべりで終始したように記憶している。
だが、冒頭の「うけてるねぇ」というフレーズだけが、いやに印象深く残っているのだった。
お二人とも関西のご出身だから、芸人の言葉づかいかあいさつ代わりなのかなあ、と思ったのだった。 しかしこの「うける・うけない」という言葉は、マンガ家や作家の間では、案外普遍的に使われている言葉だったことを知るのだ。 横山光輝氏や、後年の石森章太郎氏の「受け具合」を、師匠が気にされていた時期もあったのだ。
後年、石ノ森章太郎さんと仕事をすることがあり、何度か、あの伝説のアパート・トキワ荘にお邪魔することが3回ほどあった。
そこでも、よく出る言葉が、この「ウケる」でもあったのだ。 赤塚不二夫さん、我孫子さん、藤本さん―― 近くの喫茶店「田園」で、よくコーヒーを飲みながらの話は、現在、誰がうけているかという話題がやはり多かったのだ。
大御所も新人も、これを気にかけているのは変わらないのだと思ったものだ。
あるいは以前、手塚師匠はトキワ荘住まいで、ここのリーダー的存在であった時期があったことでの師匠の影響だったのかも知れないのである。
当時の「鉄腕アトム」の人気順位は、4位から8位を往復するあたり。
1位に君臨していたのは、後発の「鉄人28号」だった。 ところが、アトムがテレビアニメ化されるやいなや、状況は一変する。断トツの1位へ。そこから「視聴率戦争」という言葉が生まれていく。
各作家の作品がどれだけうけているかのデータは、雑誌に人気投票カードが付いていて、そこに掲載されているコンテンツの中に十作品ほどのタイトルが表示され、それを回収してデータを取っていたのだ。
テレビ放送においては、テレビ受像者全体の3%ほどの家庭にモニタリング装置を設置し、受信者のデータを取り確率計算で人気コンテンツの順位を出している。
だが、もとのサンプリングの受信と確率計算で、全体の視聴数を導き出すことについては、疑問が出されることも少なくなかった。
師匠の、そのメディアへの執着を象徴する、忘れられない光景がある。
アトムの首位は盤石かと思われたが、唯一その高視聴率を脅かす存在が現れた。 ポップス歌手の西郷輝彦氏である。 人気絶頂の彼がアトムの裏番組(音楽番組)に出る日にはアトムの視聴率が7ポイントほど下がるのだ。
師匠はある時期、彼を「アトムの天敵」として強烈に意識していた。人気とは、芸能界では日常茶飯事の事象かもしれない。 しかし、アニメの対抗馬が「歌手」になるという現実。 私はその光景を通して、表現者が背負う「うける」という宿命の重さを知ったのである。
現代のメディア空間において、芸能とアニメに境界はない。 すべてが同じ土俵で「相対化」され、等しく評価の荒波にさらされる存在となったのだ。
学生たちに、この「うける」ということについて説明するのは、なかなか骨の折れる難儀な仕事である。 うけるという本質は、言葉の軽さ以上に奥が深く、面倒なものでもあるからだ。
私が中国人学生に話すときは、まず孫子の兵法、「敵を知り己を知らば 百戦して危うからず」このフレーズから入ることにしている。
敵という言葉はコンシューマー(消費者)として、己は(コンテンツ制作の自分)だ。 相手を知り、なお自分を知れば敗けないぞ。 それはビジネスとしても負けないという意味で使われているフレーズなのだ。
また、こんなこともある。 ギリシャの哲学者タレスの言葉に、「相手を知ることは簡単だ。自分を知ることは難しい」というものがある。
この反対の言葉もあるだろう。 かように、人を知るということは簡単ではない。
あの人は好きだが、こちらの人は嫌い、という感情は誰にでもあるが、これは好みという感覚だけであり、これで相手を知っていることにはならないものだ。
圧倒的な戦力があれば戦争にはいつでも勝てる、と思っている人は、ベトナムでもアフガンでも勝てなかったし、今も勝てたとは言えないのは、みんなが知っている事実だ。
相手も知らず、さりとて自分を知っているかといえば、これとても怪しいものだろう。
昔漫才のビートたけし氏が言っていたことだが。 舞台にたって、「自分たちのギャグが全然うけていないと思ったときは、冷や汗がでるんだよ」と語っていたことを思い出す。 舞台で仕事をする人は自分がうけているかうけていないかは、リアルタイムで分かるだろうが連載マンガやテレビアニメは間接選挙みたいなものだから、少し分かりにくい。SNSならアクセス数でただちにデータはでてくる。 ただSNSの出展者はムチャクチャ多いのでテレビとは少し背景が異なる。
アトム大使
手塚師匠の元で仕事をするようになってから印象深いエピソードは数々あるのだが、一つうけるという観点からあげてみよう。
私が師匠の元に入ったころ、師匠はトキワ荘から渋谷区初台の一軒屋に住宅と仕事場兼用の居を構えていた。 そのころ「鉄腕アトム」がまだ「アトム大使」として活躍しはじめたころで、仕事場には毎日6人ほどの雑誌編集者が原稿取得のために応接室に待機していた。
ある日、日本テレビから師匠への出演依頼がマネージャー今井氏のもとに入っていた。 師匠は出演を希望するものの、編集者の了解を得るのは不可能だ。玄関の隣が応接室で、応接室のドアは常時空けっぱなしだから、玄関から出るのは無理だということは、だれもが知っている。
今井氏はどこからか、長い梯子を借りてきていて家の裏に隠しておいたらしい。私は肩を叩かれマネージャーと共に密かに裏口から外に出て、2人で梯子を二階にむけて架ける。 師匠はあらかじめ呼んでおいたタクシーで無事に脱出をはたすという成功劇だ。 2人は何事もなかった顔で定席に戻ったのだった。
応接室のテレビはいつもつけっぱなしだ。 突然テレビ画面に満面の笑みの師匠が現れる。 師匠は「アトム大使」のエピソードにこれ勤める。 しばし呆然と見つめる編集者面々、なんだこれ。 (当時テレビはモノクロ。VTRはまだ無い) 「おいおい・先生は二階にいるんだろ今井さん」 今井氏は平身低頭、一悶着はあったものの、すべがない。
師匠は編集者の苦難より、より大きいメディアを借りてでも、うけるというモチベーションを実行したのだろう。 師匠はうけることの条件の一つが、雑誌というメディアからテレビという新しいメディアに移ることを自覚していたのだ。この数年後にはプロダクションを興しテレビ版「鉄腕アトム」制作にすすむことに繋がっていくのだった。
「うける」とポピュリズムについて
ポピュリズム(大衆迎合主義)とは、なかなか危ないものなのだ。
松尾芭蕉が言った「不易流行」という言葉のうち、流行は大衆による嗜好のようなものだが、その流れから何をくみ取るのか、ここは問題だ。
うけるためには 大衆に従うのか、 利用するのか、リードするのか、 あるいは 無視はしなくとも意識をするのか、
この選択肢があるということだ。
ここで一つ注意しておきたいことがある。 あのアドルフ・ヒトラーという独裁者の話だ。
彼は当時、世界一進んでいたと言われた民主主義国家ドイツ国民の選挙によって選ばれた人物だったということだ。
今日、世界中で続々と生まれている独裁者といわれる人たちも、また選挙によって選ばれているという事実がある。
民主主義という一見美しい言葉も、うっかりすると真逆な結果を生み出すシステムだということだ。
「うける」という言葉について
私が大学などでこの「うける」についてスピーチをすると、中国人学生をはじめ、韓国、スペイン、アメリカといった留学生たちから、「自分の国には『うける』にぴたりと見合う言葉がない」という話がよく出る。
ちなみに中国語の「接受」や「受取」は、あくまで「物を受け取る」という意味である。
かつてインドでスピーチした際も、同じ質問をしてみた。 現在のインドは英語が標準語に近いが、やはり英語にも対応する言葉はないという。
近い表現として「面白い(Interesting)」「笑える(Funny)」はあるが、ニュアンスが少し異なるのだ。
しかし、インドの先生によれば、古典サンスクリット語の中に、「うける」の本質に近い言葉があるという。 それが古代インドの劇理書ナーティヤ・シャーストラに記された、観客が味わう感情のエッセンス「ラサ(Rasa)」だ。
演劇は、喜び、怒り、悲しみ、驚きといった感情を観客に「味わわせる」。 私はこの「ラサ」が、「観客にウケる感情」にいちばん近いのではないかと思った。
これは共感(シンパシー)とも似ているが、日本の「うける」は、これより範囲が広いし、コンテンツにとって最高の感情である感動というものまで含まれるのだと思う。
もともとは漫才という芸能から広まった言葉だが、手塚治虫や小松左京が自作に対して使い、現代ではゆるキャラのブームなどにも使われる。
つまり、単なる「笑い」を超え、作り出された人格や思想、コンテンツそのものに大衆が反応する状態を指しているのである。
日本がコンテンツ大国として走り続けられる要因の一つは、この「うける(=受け手と作り手が感情を共有する)」という概念を言葉として持っている点にあるのかもしれない。
物語の3要素+1
インドの「ラサ」にも見られるように、うけるには「喜・怒・哀(悲)」の要素が不可欠だ。
ギリシャ古典劇や中国の古典(書物)も、これらが中心となっているが、中国にはここに「怪異譚(ホラー)」が加わると私は思う。 芥川龍之介や太宰治も愛した「聊斎志異」は中国古代の数多い怪異譚から明代に選別されて再編集されたものだ。
「喜・怒・哀」に「恐」を加えると、いわば「感情の四大元素」になる。
「喜・怒・哀」が人間の内側から湧き出すものだとすれば、四番目の「恐」は外側からもたらされるものだ。
それは外敵や自然の脅威、あるいは人知の及ばない形而上学的な恐怖かもしれない。
徹底した管理社会である現代において、ホラー作品が周期的にブームとなるのは興味深い現象だ。
ネットで検索すれば、ホラーカテゴリーのコンテンツがいかに膨大か驚かされるだろう。
古くはお化け屋敷から、シャイニング(スタンリー・キューブリック)、エクソシスト(ウィリアム・フリードキン)、雨月物語(溝口健二)、リング(中田秀夫)、さらにはバイオハザードのようなゲームまで、枚挙にいとまがない。
「怖いもの見たさ」という言葉通り、人間は「身の安全が確保された恐怖」をあえて体験したがる性質があるようだ。
弱者の怨念を描ききった東海道四谷怪談の恐怖や、雪に閉ざされた孤独な環境で理性が崩壊していく『シャイニング』の心理的恐怖。
これら多様な「恐怖」もまた、観客に強烈な感情を味わせてくれる、大きな「うける」の一助となっているのだ。
人間は、自らの身に安全な恐怖を求める。 「わーわー、キャーキャー」と叫ぶことも、ストレス解消(浄化・カタルシス)の効果があるのだろう。
私が知るなかで最も「うける(感情を揺さぶられる)」恐怖のエピソードは、もっと静かで、合理性とは対極にある不可解な、そして、師匠が見せた瞬間だったのである。
熊ちゃんの懺悔(ざんげ)
熊谷は、大谷翔平と同じ岩手県の出身で、手塚プロダクションで「鉄腕アトム」など数々の作品の撮影をしてきた男である。
手塚師匠が作り上げた虫プロダクションが、わずか三億五千万円の負債を抱えて倒産したのが、1973年11月のことだった。
それから二年後のころ、虫プロの撮影チーフであった友人の熊谷から一本の電話をもらった。 ぜひ会って話がしたい、ということだった。
当時、熊谷は虫プロ倒産後、NHKの撮影部に入って仕事をしていた。 私個人もNHKで仕事をすることが多かったので、NHKの一番静かな喫茶店で会うことにし、後日、顔を合わせた。
仕事の話ではなく、「自分の悩み」を聞いてほしいという。
人の悩みを聞く、などということは当方としても初めてのことだった。 クマちゃんの真剣な眼差しは異様なほど集中していた。
開口一番、彼は言う。
「月さん実は、虫プロを潰したのは俺なんだ」
私は思わず、 「そんなバカな話かい、わははは」 と笑ったが、彼の表情は変わらなかった。
話は続く。
虫プロのスタジオは、手塚邸の東側の一角にあった。 その撮影室は手塚邸の庭に面しており、非常出口を出ると、そのまま庭に出る造りだった。
手塚邸は、西武池袋線富士見台にあり、もとは牧場があった場所である。 私は師匠のお伴として、ここを取得前に視察に来たことがあった。
庭の南側には築山があり、その西側にスタジオがある。 築山の北側には小さな人工池があり、その隣に祠があった。
もとは牧草地だった土地だから、築山・池・祠はすべて師匠の注文で作られたものである。
クマちゃんは、タバコを吸うときは庭に出て吸う習慣があった。
ある夜、午前二時ころ、一服するために庭の扉を開けた。
すると祠の周りを、光る物体が回遊していたという。
なんだろうと思い、一・三メートルほどの生垣の脇に沿ってそろりそろり確かめる。 さらに近づく。
光る物体は二つ。 白い物体は、着物を着た人のようだ。 ときどき光が四つになる。 二つはメガネらしい。
さらに近づく。 白い物体はしゃがんでいた。
クマちゃんは後ろから、 「先生ですか?」 と声をかけた。
「なんだ、クマちゃんか」
「どうしたんですか、先生」
「あー、これで終わったよ。 虫プロは潰れるんだ」
クマちゃんは、何が起こったのかしばらく茫然自失だったという。
師匠は言った。 「もう遅いから帰ろう、クマちゃん」
撮影室に戻ったクマちゃんは、朝まで眠れなかったという。
この出来事から一週間後、師匠の予告通り、虫プロの債務不履行が新聞の見出しを飾った。
私は改めて、 「そんなバカな話かい、わははは」 と笑いながら、
「カメラマンの君が責任を感じるような問題じゃないだろう」
と、深刻なクマちゃんに、あえて明るく振る舞った。
クマちゃんは礼儀正しく、一本気な正直者だ。 師匠の「あー、これで終わったよ」という一言が、彼の胸に残り続けていたのだ。
「俺が潰した」という責任感。 その懺悔を、誰かに聞いてもらわずにはいられなかったのだろう。
私は倒産の本当の原因をリアルに説明したのだった。
ここで、今どきの若者に少し解説をしておこう。
横溝正史作の「八つ墓村」で登場する「丑の刻参り」を連想させる姿だった。
白装束に鉢巻姿、鉢巻の左右には火のついたロウソクが二本。 このいで立ちで祠の周りを百回回り、願・成就の願いをかける。
一回回るごとにしゃがんで祈る。 これを途中で他人に目撃されると、願はすべて霧散(消える)するという関西以西に伝わる民間信仰だ。
手塚師匠の願とは、当然、倒産を免れるための祈りだっただろう。
「あー、これで終わったよ」 この一言がクマちゃんの心に残り、二年間、誰にも言えず苦しんだ彼に、私は同情しきりだった。
今どき信じられない、クマちゃんの純粋さに脱帽した。
数か月後、NHKに行った折、クマちゃんに会いに撮影室を覗いた。 あの時と違って、顔はすっきりしていた。 こちらの気持ちも晴れやかだった。
後年、このエピソードを現手塚プロ社長の松谷氏と、当時のスタッフ一人に話したが、二人とも「熊谷の妄想だろう」と言って信じることはなかった。
だが、私は信じている。
科学の象徴である鉄腕アトム、それを描いた師匠が、運命の瀬戸際で「祠」という極めて非科学的な場所に佇んでいた――。 科学と非科学、ダイナミックレンジの広さ高さ、これこそ、常人を超えたクリエイターたる所以なのだ。
古典・「敦盛」
私はここで思い出したことがある。 平家の若武者、敦盛の物語である。
平敦盛は、西に敗走する平家一門を率いる若きリーダー、わずか十六歳の公達(きんだち・貴族)だった。
平氏一族を数十隻の舟に乗せ、自らは馬に乗って舟を追おうとしたそのとき、迫ってきた源氏側の武将、熊谷直実の呼びかけに応じ、一騎討ちとなる。
このとき熊谷は三十六歳、百戦錬磨の強者である。 敦盛はたちまち組み伏せられ、兜を取られる。
しかし、そこに現れた顔は、この戦いで命を落とした己の長男と変わらぬほどの若武者16才だった。
直実の胸に、我が子の姿が重なったに違いない。
首を取るべきか、否か。躊躇する直実。
しかし味方の兵たちは、その躊躇を裏切りと見咎める。
逡巡の末、直実は苦渋の決断を下し、敦盛の首をあげる――。
この物語は幸若舞として語り継がれ、織田信長が好んで舞ったという伝説も残っている。
江戸時代以降は、歌舞伎などでも演じられ、人気コンテンツとして広く知られるようになった。
「敦盛」というタイトルだが、本当の主人公は熊谷直実の方ではないかと、私は思う。
敵将の首を取るという武士の誇りと義務と、我が子と同じほどの若者の命を奪う切なさ。
揺れる直実の心は、観客の心を強く揺さぶったはずだ。
観客は誰もが、「自分だったらどうするか」という判断を迫られたのではないだろうか。
関東エリアには敦盛草という名の野草がある。 私もそれを探して育てていたことがある。 楚々とした可愛い花をつける草花だ。
敦盛草があるなら、熊谷草、あるいは直実草がないのはけしからん、と植物図鑑を調べたところ――
あったのである。熊谷草が。 これを発見したとき、胸が熱くなったことを覚えている。
きっと誰かが、敦盛草によく似た草を探し出し、これに熊谷草と命名したに違いないのだ。
人間、親ともなれば、他人の子供でも愛おしくなるものだ。
直実は、自分の子供と同じほどの少年を討ったことを悔い、まもなく武士を捨てて出家し、懺悔の旅に出る。
この物語は、西行法師の人生(エピソード)にも似て、日本人の胸を打つ物語となっている。
ちょうど、我らのクマちゃんが、虫プロ「手塚」の倒産という「命」を奪ったと感じ、二年間苦しみ、懺悔に至った話と重なるのだ。
師匠は敦盛。 そして私は、熊谷の懺悔を受け、復活の手伝いをした―― さしずめ、沢庵和尚といったところかな。
三国志の白眉
(ハクビ・数ある中でも最も優れているもののたとえ)
吉川英治版三国志にも有名なシーンがある。
「徐州争奪戦」あるいは「下邳の戦い」である。 劉備軍と曹操軍の戦いだ。
敗色が迫る中、劉備と関羽は離れ離れになる。
残された劉備の家族――二人の夫人と侍女たちを守りながら逃走を図る関羽だったが、ついに曹操軍に捕らえられてしまう。
関羽の人柄と強さを知る曹操は、なんとか自分の配下に迎えたいと考える。
関羽は条件を出す。
漢の皇帝に降るのであって曹操に降るのではない。 劉備の夫人たちの安全を守ること。 劉備の行方が分かれば即座に去ること。
異例の条件を、曹操はすべて認めた。
曹操は関羽に惚れ込み、三日に一度の宴を開き、美女を送り、ついには名馬赤兎馬まで贈る。
しかし関羽は言った。
「これなら兄(劉備)の居所が分かったとき、一日にして駆けつけられる」
聴いた曹操は失望するが、同時に、その義の深さに心を打たれる。
関羽は恩返しとして、袁紹軍の猛将顔良を討ち取り、曹操への恩義一つを果たす。
その後、劉備の居場所が分かると、贈り物をすべて封印し、金銀も残し、二人の夫人を守りながら許都を去る。
追撃しようとする部下たちに、曹操は言った。
「追ってはならぬ。彼は主のために働いているのだ。これこそ真の義士である」と。
最高の人材が去る悲しみを抱えながらも、関羽の生き方を尊重する曹操だ。
この場面は、三国志の中でも屈指の名場面・白眉である。
関羽の「義」は、後の日本の武士道精神にも通じてくる。
戦国時代、殺伐とした三国志の中で、このエピソードは華と涙をもたらしているのだ。 義に生きる関羽の姿が、時代を超えて「うける」のは、人間の普遍的な感情に触れるからだろう。
そして今なお、コンテンツとして生き続けている理由でもある。
ちなみに、中国の寺院を訪れると、諸仏像の中に関羽像が勇立していることに驚かされる。
関羽を神格化する中国人の心にも、私たちは深く共感する。
どこかの品のない独裁者たちにも、ぜひ読んでもらいたい物語なのである。
善と悪について
日本において、かつて「悪」という文字は、単なる道徳的な非難ではなかった。
むしろ、「強大な力」「並外れた能力」を象徴する言葉だったのである。
源義平が「悪源太」と呼ばれ、藤原頼長が「悪左府」と恐れられたように、歴史上には「悪」の名を持つ強烈な人物が数多く存在する。
近年でも、野球の巨人軍の投手、堀内恒夫が「江戸っ子横丁の悪太郎」と呼ばれたのも、その名残といえるだろう。
では現在のような、「善の対義語としての悪」はいつから始まったのかだ。
それは戦国時代、フランシスコ・ザビエルらが布教のために持ち込んだ、「悪魔(堕天使)」の概念に由来するのではないだろうか。
キリスト教の思想では、絶対的な悪が存在し、そこから人間を救う善がある、と設定したのだ。
F・ニーチェ氏が言うところの善と悪の二項対立の構造である。
日本では、明治以降に西洋思想が広まり、「善(正しい)」の対義語として「悪(正しくない)」という道徳的な意味が強く定着したのだろう。
さらに「悪魔」という概念は、特別に悪い行為をした存在ではなく、生まれながらにして悪とされる存在である。 つまり、極めて主観的で抽象的な概念なのだ。
人間にとって「良くないもの」を、絶対悪として設定する思想である。
しかし日本の「悪」は、本来そうではなかった。
強さ、個性、異端、そして人間の矛盾・葛藤・悲劇。
そこにこそ、日本人が共感する「うける」要素があったのではないか。
世界の四大宗教の戒律の中で
世界の四大宗教の戒律を見てみると、興味深い共通点がある。
キリスト教の十戒、仏教の四戒律、イスラム教の戒め、ヒンズー教の戒め――
キリスト教と仏教には、殺すな(不殺生)、盗むな、嘘をつくな、などの共通点がある。
一方、イスラム教やヒンズー教には断食・清潔・服装・金融・礼拝といった生活規範に関する戒めが多い。
宗教とは本来、心の平穏を求めるもののはずである。
しかるに現実には、戦争を起こすもの、嘘で固めるもの、利己的な経済ルールを作るもの――その多くが、宗教をバックボーンとしている。
私たちはその姿を、毎日のニュースの中で見せつけられている。
コンテンツの中での「善」と「悪」を考えるとき、何が善で何が悪なのか――非常に複雑な思いに惑わされるのである。
黄金バット ― 善悪二項対立の誕生
昭和に入ると、この「善悪の二項対立」を軸にした物語が生まれる。
1930年(昭和5年)頃、紙芝居として誕生した「黄金バット」だ。
スーパーマンよりも、8年も早い登場である。
金色の髑髏の顔、黒マント、黒手袋とブーツという異様な出で立ち。
日本型ヒーローの原点ともいえる存在だった。
紙芝居では、怪奇的・幻想的(つまり出生不明)な悪が多かった。
そして黄金バット最大の特徴は、自ら「正義の味方」を名乗った点である。
ここで重要なのは、「正義の味方」という言葉だ。
正義の当事者ではなく、正義の(味方)なのである。 つまり――「弱者(市民)— ヒーロー(正義の代理人)— 巨大な悪」という構図が生まれた。
F・ニーチェさんが語ったルサンチマン(弱者の嫉妬)という概念だろう。
正義(弱者・ルサンチマン)= ヒーロー(代理人)という構図である。
そして奇妙な敵 ― ナチスの残党。
興味深いのは、黄金バットの宿敵がナチス残党(ナゾー)だったことである。
日・独・伊・三国同盟を結び、共に戦ったドイツを、なぜ戦後「敵」としたのか。
敗戦後、世界の悪となったナチスを敵にすることで、自らを正義の側に置きたかった。
これは、いわばルサンチマンの二重構造ともいえる。
戦前の紙芝居ではもっと怪奇的・幻想的な敵が多かったといわれる。 この戦中・戦後の価値観の逆転は、謎のままだ。
アトム誕生の際、その頭脳には善悪を判別するICチップが込められた、というアピールがあったので、私は興味深く見続けたがこれを描くエピソードは残念ながら見るには至らなかった。
月光仮面の登場
28年後、テレビの時代に現れたのが月光仮面である。
川内康範による作品で、これも爆発的な人気を得た。 この流れはウルトラマン、仮面ライダーへと続いていく。
こうして「正義の味方」という概念は、日本の大衆文化に定着してきたのだ。
その頃、漫画の世界ではもう一つの流れが生まれていた。 鉄腕アトムである。
月光仮面が宗教的・勧善懲悪のヒーローだったとすれば、アトムは戦後日本が夢見た「科学の光」だった。
生身のヒーローから科学のヒーローへ―― しかしアトムには悲劇があった。 人間ではないロボットが人間のために戦い、時に人間に疎まれる。
ここに、日本のコンテンツが単純な善悪対立から「人格の物語」へと進化する分岐点があった。
ロボットの時代
アトムの後には「鉄人28号」「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」と巨大ロボットの時代へと続く。 アトムは自立型ロボットだったが、その後に登場した巨大ロボットは操縦型ロボットである。
しかし、この操縦型ロボットへ移行する前に、落としてはならない重要なファクターがある。
「宇宙戦艦ヤマト」(1974)だ。
これは、もともとテレビシリーズとして制作された作品であったが、低視聴率のため途中打ち切りとなった。しかし再編集された劇場版が公開されると意外な大ヒットとなり、シリーズ4作品へと発展し、一大アニメブームのきっかけを作ったのだ。
この作品は、日本でつくられるコンテンツ・プロセスの一つのテンプレート(見本)となった作品でもある。
物語は、放射能汚染に苦しむ地球を救うため、イスカンダル星雲にあるコスモクリーナーを求めて宇宙戦艦ヤマトが旅立つというものである。
その途中、ガミラス帝国の総統デスラーとの戦いが繰り返される。 ここでもデスラーとヒトラーという悪の象徴をイメージさせる仕掛けがあった。 戦闘員・古代進とデスラーは宿敵同士となるが、やがて似た者同士としてのシンパシーが生まれ、さらに互いのリスペクトにまで発展していくのだ。
これは大佛次郎が描く鞍馬天狗の二人のキャラ「近藤勇と鞍馬天狗」の宿敵関係だ。 二人は対立関係でありながらもお互いにリスペクトし合っていた。 これは曹操と関羽の関係にも見られたものだ。
しかし、古代進とデスラーの戦いは続く。 この関係は、単純な善悪の対立では説明できないものであり、デスラーを単なる「悪」とは呼べなくなる。 ここから「悪役」ではなく「敵キャラ」という呼称が生まれてきたのである。
このヤマトの成功を受けて登場したのが「機動戦士ガンダム」である。
ヤマトが戦艦だったのに対し、ガンダムは戦車型ともいえるモビルスーツへと変化した。 その背景には、ガンダムの企画者の中にヤマトのスタッフが複数参加していたことである。
地球連邦側のアムロ・レイと、敵側のシャア・アズナブルの関係も、ヤマトにおける古代進とデスラーの関係をさらに定着させたものだった。
ここでもまた、敵対しながらも互いを理解しようとする感情の揺れが描かれる。
こうして、日本のコンテンツの中から単純な「悪」が消え、「敵キャラ」という存在へと変化していったのである。
かつて弱者の味方だったヒーローは、やがて共存の問いを経て、個の確立へと変化してきたのである。
これは、手塚イズムの遺産と言えるのではないだろうか。
ちなみに「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー西崎義展、企画提案者の平田省吾は、ともに手塚治虫のマネージャーを務めた人物であった。
また富野由悠季も手塚プロ出身の演出家である。
操縦者対操縦者の戦いとなり、やがてそこにはスポーツ化の様相が見えてくる。
つまり、正義と悪という道徳的対立は薄れ、価値観の対立へと変化し、さらにスポーツ根性ものの時代を経て、純粋なスポーツの物語へとつながっていったのである。
「あしたのジョー」「巨人の星」「アタックNo.1」「タッチ」「キャプテン翼」「テニスの王子様」
こうした作品の中では、感情を通して個の確立と成長の物語が語られている。
人間の葛藤こそが観客の感情を揺さぶり、それが「うける」物語となっているのであろう。
これらがうけた理由は単なる戦いではない。 そこには孤独、葛藤、義、悲劇といった人間の感情が常に内包されていたからである。
この流れを見れば、手塚イズムの影響が日本のコンテンツに広く受け継がれていることは明らかであろう。
つまり「戦い」はあくまで装置であり、観客がうける本質は、人間の感情の揺れなのである。
鉄腕アトムが誕生してから七十四年目の現在である。
はじめに橋本忍氏から物語とキャラクターについて教わったことを書き、次に牛山純一氏からモンタージュと記号(アニメ論)について書いた。
そして最後に、お付き合いの最も長かった手塚師匠から貰ったものが「うける」であり、このブログの中で最も長い文章となってしまった。
はじめに書いた松尾芭蕉の言う「不易流行」の不易とは、感情の揺れのことだったのではないかと思う。
これを再びフローチャートにすれば
心の揺れ(感情) ↓ 共有 ↓ 共感(うける) ↓ 感動
となる。
日本語には「情」のつく言葉が多い。
情誼・情義・情意・情炎・情緒・情状・情勢・情操・情話・事情・非情……
ざっと三十以上もある。漢字民族には感謝する。
一方、英語では Happy(嬉しい・楽しい)、Love(愛する)、Feeling(感覚・感情)、Sympathy(同情)、Empathy(共感)程度である。
なお、Empathyは19世紀前半につくられた比較的新しい言葉である。
心偏のつく漢字は九十以上もあるというが、英語では数語に限られる。
いかに漢字文化圏の人々が情に対して繊細な感受性を持っていたかが窺われるのではないだろうか。
こうしてみると、「うける」の方程式は単純である。
しかし、それを説明するのに十日間もかかってしまった。
やはり、チト面倒なテーマだったようである。
月岡貞夫