「狼少年ケン」のはなしに入る前に手塚師匠のもとから東映動画に移った事情について少し書いておきたい。

「西遊記」製作完成と共に師匠のもとに帰る予定だったのだが、完成が近づいたころに東映動画側(演出助手の白川氏)から東映に残らないか、というはなしがあったのだ。アニメも続けたいが師匠との約束が優先するので無理だね、と答えたのであった。

当時の東映動画の社内規約として動画部以上のセクション企画部・監督部では大学卒業以上とする旨の規約があり、動画部採用後は半年の養成期間が設けられていたのだった。しかるに月岡は高校卒業のままであり、養成指導も受けてはいないが、「西遊記」では原画・動画を15カットは描いていてそのまま採用されている。それゆえ一つの特例見本として採用すべきという意見が演出部と企画部から出ているという。それは既に人事管理部、専務の了解もでているという話しだった。その後白川氏は師匠のマネージャー今井義明氏と連絡をとり、月岡をスカウトしたい旨をつげた。今井氏としては手塚が自らアシスタント要請した唯一の男だとして拒否したという。結局は師匠と月岡の直接対話に委ねられることとなり。

「月さんはどうしたいのか?」と尋ねる師匠。月岡「アニメもやってみたい気持ちはあります」。「実はぼくもアニメをやりたいのだ、ぼくがアニメをやる時は必ず戻ってきてくれたら月さんを東映に出そう」とおっしゃって頂いたのだった。

手塚師匠の仕事に対して何の不満はなかったが、アニメは色付きの仕事であり、何より動きをつくれることと音楽・音響のつく仕事は魅力があったのだった。

東映動画のスタッフたち

「西遊記」の後に始まったのは「安寿と厨子王丸」(1961)だった。

アニメ・シーンの割り振りは、まず主役級のキャラクターを誰が担当するのか、から始まる。お二人の巨匠、大工原氏と森氏のどちらかが担当され、次に重要なキャラを演出家とサブ・チーフたちの話し合いで決まっていくのだった。

熊川氏と古沢氏はそのほかのキャラを受け持ったようであった。私の上にはセカンドの小田克也・通称オダカっちゃんだったが、大元の原画は、というかレイアウトは熊川さんが描いていたので、仕事上は熊川さんとの付き合いが多くなり、よく熊川さんの御宅にもお邪魔していた。

熊川さんは穏やかな優しい人で、奥さんも同じくやさしくとりわけシュークリームづくりの上手い人。私は幾度となくご馳走になっている。

仕事上は水モノ(水とか波を動かすこと、いわばエフェクトと言われるもの)が多かったが、本来「くもとチューリップ」のてんとう虫のかわいい動きをつくったアニメーターだから、可愛い動物をやってもらうべき人だったと思うのだった。

エフェクトの研究

私はこの時期多摩川に行って水の動きの研究をやっていた。水面の真上から大きい石を落として水の動きをスケッチしたり、小さい石を横に投げたり角度を変えて起こる水の動きを見たり、一日中やっていることもあった。

河原の石ころが無くなる心配もあったが何回もやっていると動きの瞬間までが見えてくるのだった。ダビンチみたいと思いながらやっていたら、私の行為を橋の上で見ていた人がチャリを引きながら寄ってきて「なんか困ったことがあるの? 相談にのるよーいつでも言ってきなよ」 「いまのところ大丈夫でーす」と私。「やけなんか起こしちゃだめだよー」「はーい」。

私の東映時代で一番勉強したのがこの時期だったと思う。会社にいるときは動画製作課で2時間ほど仕事をし、あとはお隣の背景課に行って作画作業を見ているのが好きだった。そのころの背景作画はポスターカラーで描かれていたものだったし、現在も変わらないのである。

私も家が映画館をやっていたのでポスカについてはある程度の心得はあったのだが、ここでは高度なテクニックをもっている一流の画家たちが揃っていたのだ。後年アニメブームが到来すると東映から出た方々が指導者として働いた歴史があったのだ。

私の駆足というか軽足はここに留まらない、次には1階にある撮影課であった。自分のアニメを撮影してくれている人たちにご挨拶しておかなくちゃあ、というスタンスだから初めは幾らかぎこちない時があるものの、慣れるまでに時間はかからない。なれたら次はお手伝いしましょうという具合である。

チーフカメラマンの桜さんに山浦さんは後年虫プロダクションに移籍し、山浦さんは虫プロ倒産後にサンライズ設立に参加し、三代目の社長にもなった人だった。私の「ねずみの嫁入り」を撮影してくれた文ちゃんこと篠崎文男と菅ちゃんのうち文ちゃんはTBSテレビの撮影部に入り、菅原英明ちゃんはCM制作の大手東北新社に移籍した人だった。

次に通ったのは編集部だった。編集部といってもそのころ助手もいなくて、稲葉侑三氏だったか、お一人でやっていらっしゃった。編集というのは作品が出来てこなければ仕事はないわけだから、長編だけをやっているなら暇の時間は多いはずなのだった。しかしただ一人でやっている仕事場というのは、なかなか入りにくいものでもあったし、一人でやれる仕事(とは言っても演出者とのコミュニケーションは濃密のはず)は人付き合いが少ないので洒落も冗談も繋がりにくいものだ。それでも二回ほど押しかけてるうちに稲葉氏の態度は次第に軟化していった。

田舎の映画館では映写技師の経験があり、切れたポジフィルムの繋(つなぎ)はお手のものだったことをはなしたら、それから俄然態度がかわりネガフィルムの扱いについてとかエマルジョンの削り方、音ネガフィルムとのシンクロについてとか、いろいろおしゃべりしてくださり、のちのち役立つことを教えてもらったものだった。

後年フリーとなった私は16ミリカメラのボレックスを購入し自主作品の多くは自分で撮影し編集まで一人でやることが出来たのは、ひとえにこの時期の東映動画のお蔭様であったことを記しておきたい。東映動画にはどこの大学にもないアニメに必要なすべてのknow-howがあったのである。私にとってすばらしい大学だったしテーマパークでもあったのだ。

そのころ東映動画には農繁期と端境期というものがあった。これは一年で一度しかお米が摂れない日本独特の言葉だが、一つの作品が終わって次の作品が十分に整わないのでアニメーターに仕事がない時期があったことを表す言葉なのだ。経営者としては困ったことだったろう。企画部の若手社員原徹さんは、これを利用して短編の企画を提案し、それは認められていた。東映には教育映画部というセクションがあり、おもに学校向けの映画をセールスしていたのだった。ちなみに現在のテレビ朝日は以前NET(日本教育テレビ)という名称であり、東映が設立した放送局だったのだ。

もぐらのモトロとねずみの嫁入り

企画部の原さんは(ジブリの創設者でもあった)同期の監督部・俊英の池田宏さんを誘い「もぐらのもとろ」(1961)原徹オリジナルシナリオを立てて、アニメーターの永沢詢氏を筆頭に、彦根範夫、児玉喬夫、横井三郎氏など8人ほど選りすぐりのスタッフを集めていたのであった。それでなおも仕事のない人は50人はいたはずだった。

あるとき東映本社企画部の白川大作さんがやってきて「月さんも何か企画もってないの?」と私に問う。

「やぶから棒にいわれてもねー『ねずみの嫁入り』、なんてどうなの?」私。

「膨大な西遊記の絵コンテ描いたんだから、ねずみの絵コンテくらい描けない?」白川。

「じゃあ明日まで待ってよ」私。

翌日「コンテできたよ、見てよ大作さん」。「もう出来たのーさすが」白川。

その日の夕刻「月さん決まったよ、スタッフ集めよう」ということになり、背景美術は小山礼司氏にお願いし「もぐらのもとろ」に遅れること一月半、「ねずみの嫁入り」でスタートということになった。

ねずみ組はもぐら組より遅れてスタートしたのだが、2か月で完成しねずみの方が早かった、というはなしだ。

作品完成後には一階の教育映画部の部長さんである赤川孝一氏がねぎらいのご挨拶にいらっしゃっている。

東映動画は誰がつくったか

私が大学の仕事をするようになり、よく中国の大学でスピーチを頼まれて行くのだが、学生からよく出る質問に日本のアニメは手塚治虫氏から始まったのかどうかを聞かれるのだ。東映が最初の長編アニメ「白蛇伝」を創っています。と答えると東映は誰が作ったのかとくる。資本家である大川博氏であると答えると大川氏のモチベーションはとくるのだが、誰のモチベーションでアニメをつくろうとしたのかについて調べておかなきゃあ、と思いつつそれなりに調べて分かってきたことは、前述の赤川孝一氏がキーパーソンであるらしいことが解ってくるのだった。ここも現在分かった範囲について書いておきたいと思う。

このあと手塚師匠のほうは着々プロダクション設立と初回作の「ある街角の物語」(1962)製作のスタッフ集めのための仕事に入っていたし、東映動画では手塚治虫・北杜夫作の「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」(1963)があり、私は両社のために多くの仕事をしていたのであった。

狼少年ケンの誕生

「鉄腕アトム」(1963)に製作、放送が始まると30%の高い視聴率が示すごとく一挙にアニメブームとなり、民放各社ともアニメ獲得に奔走が始まり東映の傍系たるNETからは東映動画に対してやんやの催促となるのだった。東映動画としては日本のアニメの老舗ではあるもののテレビ制作では素人でもあったし、まずはスケジュール・クオリティなど即答できるはずもなかったのだ。

チーフのお二人大工原氏森氏ともに固辞する始末、虫プロが出来て、東映ができないはずはなかろう、というのが東映動画の戸上専務だという。お二人の他に誰ならできるかと問われて出てきたのが月岡だったというのだ。このことは大工原さんが東映動画を止めてカーペンターというプロダクションを起こした後で聞いたはなしである。

その後私か専務によばれて「月岡君なにかやりたい企画はないか」ときた。「もちろん考えたことも何もありません」と私。「SFで何かないかねー?」専務。「私がやりたいものができるならやってみてもいいですよ」と私。「じゃあなんか出してみろよ」専務。「じゃあ3日ばかりください」私。「いいだろう、頼んだよ」専務。

一晩考えた、まずは鉄腕アトムブームが起こりつつあって各社一斉にSFコンテンツ捜しで奔走していることはすでに承知していたので、天邪鬼の月岡としては真逆を考える。

そこで出てきたのはジャングルものというジャンルで言えば狼少年であり、ケン君だった。イメージさえ出来たら仕事は早い、翌日にはイメージコンテはできた、約束の一日より早く2日目には専務に対面するが、彼らに決定権はないことも承知している。

たぶん広告代理店を回ってスポンサーにプレゼンテーションだ、ここでオーケーがでたら万事オーケーなのだ。決定は早かったようだが、一つ関門が出ていた、2分のフィルムを出すからパイロットフィルムをつくってくれ、という注文だった。おやすい御用とばかりに一人で原動画に入るのと同時に背景美術をアニメーターの児玉喬夫さんに頼んだ。2週間ほどで45秒のパイロットができた。プレテに回ってオーケーが出るのも早かった、あちらさんもつべこべ言うより一刻も早くコンテンツが欲しかったのだろうと想像できた。このパイロットフィルムはそのままオープニングとして使われることになるのだった。

鉄腕アトムのテレビ版では師匠のシナリオなしのいきなり絵コンテというのが常態化していたので、こちらの狼少年ケンでも三稿目くらいまではアトムにならってシナリオなしでスタートしていたが、私が目指したものはワーナーブロスの「バグスバニー」シリーズだった。ケンを中心に狼一族とジャングルの3悪役ゴリラ・クマ・トラの3悪役を設定し、南米でもないアフリカでもアジアでもない空想のジャングルである。戦いがあっても絶対に殺しはなしという世界観。できるだけギャグで締めたいという目標をたてていたのだった。

小林亜星氏宅での喧嘩

まずはオープニングの音楽どりということで作曲家を誰にするかが問われたので、当時コマーシャルソングで売り出し中の小林亜星氏を推薦し、プロデューサーに連絡をとってもらい、テーマ音楽のための元気のよい作曲をお願いに小林氏宅に向かうこととなったのだった。

当日は私と「狼少年ケン」のシリーズが決まった後に担当者が企画者として送り込まれた籏野氏と、やはりNETから担当者として宮崎氏がおくりこまれてきた。某日この3名で中野区の小林邸に向かったのだった。

小林氏にはコンテンツの世界観をご説明し、まずはオープニングの元気がでる主題曲のご依頼をお願いする。

小林氏は唄はあるのか詞はどうなのかのご質問がでる。

私は「唄はなしです」

それまで無口だった宮崎氏から、「歌はほしいですねえ」と異論がでた。

「局としてはぜひとも歌がほしい」と宣う宮崎氏

私は「鉄腕アトム」スタイルでいきたいと話す。

アトムのアップテンポの行進曲はインパクトがあった。

ここは水掛け論になるのだが、好み・主観の違いなのだが「局として・・・」の権威主義が気に障るので後に引けないのだ。

たぶん相当に感情的になってどちらとも手が出かねないところまでいっていたようだったらしい、長ソファに並ぶ私と宮崎氏の間に巨漢の小林氏が割って入り「お二人とも少し頭を冷やしてからもう一度お話ししましょう」の言葉に切られて、その場を収めた次第だった。

その日は私一直線に手塚邸に向い、師匠にご意見を求めたのであった。

師匠は「そりゃあ歌は入れるべきだよ月さん」だった。

「おれはオープニングで失敗したんだ、歌をいれるべきだったと」。師匠のこの一言は効いた。

すぐさま私は宮崎氏に電話をし、意固地な自分を謝罪するとともに歌入れを発表したのだった。

間髪を入れず東映動画社長吉田氏からお呼び出しがかかる。

社長室に行くと吉田氏は満面の笑みで向い入れてくれた。

(吉田氏は1959年ころからの日本レコード大賞の審査委員長を務めた吉田信さんである。戦前の歌謡曲の作詞家)

「私の作詞の弟子でね、某君を紹介します、素晴らしいセンスの持ち主でね、君の番組の主題歌をぜひ書かせてはくれませんか」

吉田社長はすでに某氏を呼び寄せていたのであった。

「もちろんこれから作詞を依頼するところですから、ぜひ仕事ぶりを拝見させていただきます」となったのである。

某氏はとても若い青年であり人懐っこい人でもあったので、作品のコンセプトをおはなしし、後日の期待は膨らんだところであった。

それから4日後に某氏は詞作を持って来社され、私とプロデューサーとで対面し作品をお預かりするが、期待通りとはいかなかった。

こちらのコンセプトとは異なり、愛であるとか好きだとか、いわゆる演歌の詞なのである。これはむずかしいぞとは感じたもののプロデューサーは評価を避けている。結論は先送りとし某氏には引きとっていただいた。

私の責任としてはコンセプトはこんなものですよ、と言葉書きにしてみたのだったが、作詞家の某氏に見てもらうにはためらいもあって、まずは演出部の芹川氏などにも相談したところ、月さんの詞(ことば)書きをそのまま使ったらいいじゃないかという意見だった。

誰が書いたものかは隠して作曲家の小林氏にも見てもらうことになった。小林氏も2つの詞をみたら某氏のものを選ぶ判断は無かったと思う。その詞(ことば)書はそのまま使うこととなり小林氏はこれを元とし作曲に入ることとなったのであった。

もちろん私は社長室に行き、経緯をご説明し吉田氏の期待に応えられなかったことに対してお詫びをし、吉田社長も「そうかそうか 残念だがしかたないな」と言って下さりとりあえず落着したのだった。

某氏との友好はその後も続き、15年後には「NHKみんなの唄・すてきなバースディ」で、石坂まさお作詞、月岡貞夫アニメーション。として仕事をしていたのである。

なお主題曲、音楽録りの段階ではすでに明友となった芹川氏にも参加していただいた。

唄えよ ケーン

叫べよ ケーン

泳げよ ケーン

ジャンプだ ケーン

動詞の後につけたケーンという叫び声は芹川氏のアイディアであり、狼少年ケンのタイトル文字が現れる瞬間のジャーンという効果音もまた芹川氏のアイデアなのである。ほんの僅かな助言のようだが、オープニングのダイナミズムを一段と引き上げてくれた恩人でもあったのだ。

これも後日談だが、狼少年ケンが放送されて半年後鉄腕アトムのオープニングにも唄が付いたのである。

谷川俊太郎作詞・高井達雄作曲「鉄腕アトム」の唄。

声優の選考

声優の選考で一番もめたところは主人公の声優についてであった。私は当初から男の子を使いたいと思っていたのだが、宮崎氏はじめとして関係者はほぼすべてが反対であった。理由はただ一つ、少年らは声変わりという生理的なる問題が付きまとうのだと。過去の経験でも男の子役の声優はすべてが女性であったしそれ以後も変わらないのだ。

しかしそれでも私は男の子を使いたかったし、シリーズ契約は4クール1年間であれば声変わりは避けられるであろうと、東映児童劇団に所属する西本雄司君をケン役に起用したことは結果として成功したとは思っている。

しかし終盤になると少し大人っぽい声になってきたのは否めないことだったのだ。

シリーズ継続の話も2回ほど聞いたことはあったが、西本君の声変わりがネックとなってシリーズは続かなかったのだった。AIがあったならばと・・・。

テレビシリーズというのは、前例となった「鉄腕アトム」がそうだったが、放送開始時点でストック(在庫)が5本、最低でも3本は必要だと言われていた時代だった。

しかし「狼少年ケン」の作画スタッフは9人ほどしかいなかった。

それにもかかわらず、「狼少年ケン」は2本しかストックがないままオンエアが決まったのである。

交渉窓口である企画部としては、いざとなれば長編班のスタッフを回せば何とかなる、と高をくくっていたのかも知れない。

だが制作進行部はたいへんだった。みな胃潰瘍になるのではないか、というような状況だったのである。

あるとき専務に呼ばれた。

「月岡君、相談だが――君は一人で月1本、原動画ができないか。ストーリーはライターを使えばいいし、演出(監督)なら撮影所から助監督をいくらでも連れてこられる。だが君は、どうしても作画戦力として必要なんだよ」

「いいですが、では在宅勤務にしてください」

「構わんよ」

私自身も、空っぽな頭でストーリーを考え、同じようなカット割りをルーティンすることに、少し飽き飽きしていた。

だから会社案にも特に抵抗せず、そのまま引き受けたのである。

かくして今度は、人様の絵コンテからアニメを専門に作る方向へシフトすることになった。

しかしシリーズ「アトム」放送以来、毎週アトム全体の4分の1から3分の1ほどを作画していたので、これもまた大変な仕事となっていた。

アニメというのは、絵を描いている最中に動きのアイディアが湧いてくるし、ギャグなどもでてくるものだ。

それはいわば"遊び"であり、アニメーターの腕の見せどころでもある。

ちょうどジャズに近い考え方だろう。

「バグス・バニー」シリーズのおもしろさ、おかしさもまさにそこにある。

だが時間に追われて仕事をしていると、そういう余分な遊びはすべて封印しなければならなくなる。

仕事に遊びがないということは、誰にとってもあまり良いことではないのだろう。

芹川さんの不幸

若い人は知っているかな――「自転車操業」という言葉を。

自転車というのは、人間が足で漕いでいるあいだだけ走る乗り物である。

漕ぐのを止めれば倒れる。つまりアウトだ。

テレビシリーズも同じで、放送に間に合わなければアウト。

放送局から損害賠償を請求されるか、会社が倒産するか――そういう世界である。

企業としては、何としても放送に穴を開けられない。

それが絶対命題だった。

芹川氏は、ある作品で、バンクにあるカットだけを使って一本の作品をでっち上げたことがあるつわものだ。

放送に穴を開けず、結果的にはシリーズを救ったわけだから、会社にとっては表彰ものだった。

つまり彼は、現代でいうAI的な仕事を、すでに先取りしていたとも言えるのである。

絵コンテに基づいて、既存カットを一つ一つ呼び出し、つなぎ合わせる。

そういう作業の多くは、すでにAIだけで可能なのだ。

芹川氏は、その実証実験を半世紀以上前にやっていたとも言える、表題では「芹川さんの不幸」と書いたが、立場によっては幸福と受け取る人もいるはずである。

赤川孝一さんのこと

赤川さんは東映動画の長編処女作「白蛇伝」の企画者であったことを知ったのは、私が会社を退社して15年ほど経ってからであった。作品のタイトル表記には確かに赤川孝一の名は出ていたのだが、ふつう強い興味でもなければそこまでチェックする者はいないだろう。

前述したように私が東映動画で最初に演出した作品が「ねずみの嫁入り」だったことで、作品完成後は教育映画部に回る事になり、ご挨拶に見えられたとき赤川氏と対面したのであった。

遠い記憶を辿ってみるとじつはそれ以前にも1~2回赤川さんにお会いしていたのであった。それはスタッフルームで「西遊記」の絵コンテやストーリーボードを描いているときに、渾大坊五郎さんとご一緒に見物におみえになっていたのだった。

渾大坊という変わったお名前の人は、東映本社所属の人で「西遊記」の企画者としてお名前が掲載されていた人である。渾大坊さんは恰幅もよくお話し上手な方だったが、赤川さんは控えめで言葉数の少ない方だったのである。

私が東映動画設立のモチベーションはどこから始まったのかに興味をもち、甘粕正彦関連の本を読んでいると、この渾大坊氏のお名前がときどき表れるのだった。私の好奇心が10年20年まえに始まっていたら、とつくづく思う。

龍―RONのはなし

月岡貞夫と友人

おはなしは下って1990年頃だったと思うバンダイの社長室長をやっていらっしゃる土屋新太郎さんから連絡があり、おもしろい本があるので一度読んでみてくれないか、という話しだった。後日送られて来たのが村上もとか作「龍―RON―」であった。文庫本で42刊もあった。

「えっこれ全部読むの~」というのが最初の印象だった、ぱらぱらめくっているうちにだんだんとのめり込んでいき2~3日で読み切ってしまったのだった。

土屋氏はアニメにできないか、という相談だったのだ。めちゃおもしろいがアニメのドラマ向きではない、映画向きであることは確かだがスケールは大きいので、今の映画関係の会社では賄い切れないだろうという発言をしていたのだった。

この物語後半半分は中国上海・吉林省が舞台である。風景はあまりにもリアルでありロケハンしたのか?つまり私の見覚えのある建物風景が描かれていたからだ、そして舞台は満州映画製作会社の内部が出てくるのだ。

主人公の恋人はここで映画スターになってるのだが、小道具やスタジオ風景やカメラ機材もたしかミッチェルカメラなど当時の最新のものがでていたと思う。作者の村上氏は一体どういう人か・・・。

尚もおもしろいのは人物の捉え方も個性的だった。

甘粕正彦の捉え方、周恩来や鄧小平、それにスパイとして影を見せる男性が、東映動画専務だった戸上氏(お名前失念)そっくりに描かれていたのだ。

戸上氏は身長180㎝近く美男子だが眼光するどい人だったせいか、中国でスパイ活動をやっていた人だという噂があり、社内でも恐れられていた人だった。実際は人情味の深い人だったことを私は知っている。マンガ 龍でもそうした扱いで描かれていた。

甘粕正彦(1939)自身スパイの元締め(関東軍特務工作員)と噂された人物であり、後年は満州映画協会・理事長を勤めた人である。

ということは、作者村上氏は満州映画について相当ご存じの方だとお見受けしている。編集者すじの情報では村上氏の叔父さんが満州映画で美術カメラマンを勤められていたと聞き及んでいる。そして満映時代に撮ったスチールをすべて貸与されマンガの資料になったのだというおはなしを聞いたのだった。

多くの本によると太平洋戦争が敗北すると甘粕正彦は自殺するのだが、その場に立ち会った人がお二人いて、一方が内田吐夢監督、今御1人が赤川孝一氏だったと書かれている。

あの「かぐや姫」をアニメにしたいとした内田氏と東映動画教育部にいらして「白蛇伝」の企画者の赤川孝一氏だったのだ。なぜこのお二人なのか?。

内田監督の代表作「飢餓海峡・松本清張 作」で有名だが、私は「血槍富士・1955」が大好きだった。この企画には伊藤大輔・小津安二郎・溝口健二・清水宏とか、日本映画を代表する監督たちが協力していたのだった。

内田氏赤川氏の共通点はアニメに関わることのほか、中国が関わるのは偶然なのかどうかも知りたい、資料を漁って見たことがあった。このお二人を結ぶものは甘粕正彦氏なのだ。近年甘粕氏について知ったのはマンガ「龍RON」からだったが、「甘粕大尉、保坂正康・藤原作弥」「満州裏史、太田尚樹」「甘粕大尉、角田房子」「甘粕正彦乱心の曠野、佐野真一」「佐藤真氏は甘粕正彦についての著述は多い」これに加えて「内田吐夢伝・鈴木直之」の他に東映動画社史には赤川孝一氏が自らコラムを3回ほど書いている。ほかには大川博氏が週刊誌対談で経済評論家の小汀利得氏と数ページにわたっての対談があるが、彼が語る多くのアニメ情報は赤川氏が調査した資料に元づくものだと思われるものだ。その当時としてはドイツのロッテ・ライニンガー女史についての情報は映画雑誌などにはなかったが、赤川氏の調査資料にはあったのだ。

この時代の世界のアニメ情報としては動画部のもつところの情報の域をも超えているものだった。

多くのアニメ史には、大川博氏のモチベーションから始まって今田智憲氏を語るものが多いのだが、それは主に経営手腕を発揮した人が今田さん岡田さんあたりになるのであって、アニメをやりたいとする初めのモチベーションは赤川さんではなかったかと言うのが私の見立てであるのだ。

新宿の飲み屋

私の最後のお勤め大学は新宿西口大ガード近く青梅街道沿いだった。裏口から15メートルほど歩くとお滝橋通りである。その途中に瀟洒なビルがあり、その2階にビルに似合わない飲み屋さんがある。もともと飲み屋さんかあったところにビルが建ったので優先権でビルの2階に飲み屋を移したらしい。しかし昼間は定食屋をやっているので、私はよくここを利用していた。店にはやはり飲み屋にそぐわない小さな30センチ四方ほどの油絵が飾っている。「この絵おやじさんが描いたの」と私。画は鹿児島の桜島だけがドーンと座っていた。この桜島の原田学院と言う専門学校があって5年間ほど通い思い出深い桜島だったのだ。

「いやこの絵は赤川さんと言うお客さんからのもらい物なんです」。

「フーン」と私。

「赤川孝一さんも何とかと言う人からの貰い物だという」

「えっ、赤川孝一って言ったあ」と私。

「映画会社の赤川さんかいな」

「そうなんです、お客さんご存じの方?」

「以前ここには赤川さんのお友達のなんとかさんとなんとかさんが夜のお客さんで、ヒイキにしてもらいました」という。

ここから始まって赤川さんと内田吐夢さんのお話しを随分おはなししていただいたことがあったのだった。

歩く二人

中国での赤川さんは満映にあらず、満州鉄道に在籍していたのだった。満州鉄道は日本の国策に沿うものと言う意味では満州映画と同じであるが、大川氏の満鉄での職務は中国経済研究調査官の職務だったようだ。

一方同じ時期の赤川氏は満鉄の中にある教育映画部で仕事をしていたのだ。

16ミリカメラでもってニュースとドキュメンタリーの中間ほどの仕事だったらしい。広大な中国台地にはまだ上海と香港の一部にしか映画館はなかったのだ。

赤川さんは助手とともにプロジェクターをロバに乗せて地方を回り、夜になると白い布のスクリーンを張って映画を回していたという。つまり自分で映像を撮り、興行までやっていたようである。

一方上海には中国の映画会社、電通影片公司や新華影業公司が活発な活動をしていて、満映や満鉄教育映画部とのある意味で競争関係もあっただろう。

1941年に中国初アジア初の長編アニメ「西遊記・鉄扇公主の巻」が万兄弟によって作られている。今風に言えば大ヒットであったはずだ、地方にいけばのんびりとしたドキュメンタリーなど 西遊記に叶う筈もなかったであろう。

赤川氏はこれを、身をもって体験しているはずなのだ。あるいは内田吐夢監督も見ていたかも知れないのである。白蛇伝が作られるのは鉄扇公主が作られた16年後のことであった。

余談になるが同じこのころ小津安二郎監督はハワイにおいてディズニーの「ファンタジア」を観ていて、「この戦争(太平洋戦争)は負けだね」と言ったというはなしは伝説となっている。

それはそうとして白蛇伝製作スタッフのうち美術監督をつとめた橋本潔氏がご存命だと情報をえた。彼も満映組から東映動画で仕事をし、その後NETに転職しているので現在地は容易に得ることが出来た。さっそく電話をし赤川情報についてたずねた、親しい友人だったから何でも聞いて、という嬉しい声を聞いてご自宅にむかったものだったが、赤川氏とご一緒に写っている写真を2~3枚見せてくれただけで、こちらの知りたい情報についてはほとんど得るものはなかったのである。

もちろん現役最長老の元東映アニメーション社長の泊氏にもインタビューしたが、彼は大泉撮影所育ちの元監督さんだから、私が在籍していた頃のことさえ知ってはいなかったのだった。

2022年に「満映秘史」を出版された岸富美子・(石井妙子聞き書き)岸さんは満映唯一の編集者である。彼女の甥子さん千倉氏に連絡がとれたので、間接質問をお願いしたが赤川情報についてはやはりだめであった。ちなみに千倉氏は「狼少年ケン」の担当編集者をしてくださっていた人でもあった。

日本国の敗戦宣言と共に満鉄組や満映組の多くは帰国することになったのだが、満映組のうち内田吐夢監督と持永只仁氏など数10人は残留として残り、悲惨な経験が待っていたことは 岸氏の「満映秘史」に詳しい。さらに数年後には相当数の人たちは日本に戻ってこられたのである。

おもしろいことに中国から引き上げてくる人は右翼も左翼もすべて東映映画が引き受けていたのだ、という記述を読んだ記憶がある。

その意味で言えば東映映画の創業者である大川博という人は大きい人間であったことが解ってくる。誰でもができることではないだろう。その大川氏から私は何回か表彰を頂いていたのだ。残念ながら仕事上ではない。社内運動会においてなのであった。

バスの中で

私が東映に在籍していたころ東映には社内の運動会というものがあったのだ。学校での運動会は誰もが経験するところだが、会社が運動会をするなんてことは聞いたこともなかったが東映にはあったのだ。じつは赤川氏の足跡を追ってしらべていると満州映画協会にも運動会が存在したということが分かってくるのだ。このせいかどうかは分からないが、中国の大学にも運動会という制度をもっているところがあるのだった。すべての大学にそれがあるのかどうかは調べてはいない。

東映には本社に興行関係を行う組織があり、映画撮影のための組織があり、動画映画の組織があったので、すべての人員を集めたら数千人のスタッフがいたであろう。

撮影スタジオが並ぶ裏には大グラウンドがあって運動会には全東映社員が終結するのだった、とはいっても参加不参加は自由のようだったので、運動系が嫌いな人は姿をみせることはなかった。

社員すべてに2種目の競技に参加する権利?のチケットが配られる。私は運動系の人間だから競技不参加の人のチケットを集めて5~6種目の競技に参加していた。ほとんどは一位をとれるのだったが、一位の景品が豪華だったし、賞を貰える人は一位の人だけであった。私は3回目の授賞式にでたところ審査委員長大川氏は私の顔を覚えていたらしく「またちみか」と声をかけられたのである。

ちみか!とは「君か」のきが、ちになるのは新潟弁の特徴なのであった。

もう一つの運動会

私が東映在職中にロックアウトというものがあった。意味は閉鎖する、締め出すということ。会社と労働組合の対立が激しく折り合いがつかなくなると、会社は門を閉ざし、社員は仕事が出来なくなるという状態をいう言葉である。

朝出勤したら会社の門が閉ざされていて中に入れないのだ。門前は先に出勤した人たちで溢れている、会社がロックアウトしたのだという。

じゃあ帰ろうって言ったら、それはダメだという。組合の3役が会社内の中の組合事務所にはいったままだし、社員は働く意思があることを示さなければ後々困ることになるのだという、かくして会社が閉ざした門を開けるまで社員は毎日ここに来て働く意思を示さなければならぬと言うことになったのだ。秋晩の寒空に焚火を囲んで会社にシュプレヒコールを送るという退屈な毎日の3日目だった。一方門を厳重に閉ざした中では会社の役職たちが、代わり替わり見回り姿を見せるのだが、時々警察しかも機動隊すがたの者が警戒の中にいるようなのだ。

組合3役の奥方たちは毎日ご亭主の弁当と下着類をもって出勤するが、会社側は門を明けないし、弁当を受け付ける気配すら見せない。

門の前のスタッフたち

スタジオの敷地は2、5メートルのメッシュフェンスで囲まれ、上部には鉄条網がめぐらされているので容易には入れない構造だが、幹部3人永沢氏・生野氏・東氏は食事をとってはいない日が3日めを迎えていた。外にいる幹部たちは食事と下着を届ける作戦を練る。フェンスから組合事務所までは8メートルほどあるだろう。だれか届ける奴はいないかと密かに募集するも名乗りをあげる人は無しだ、指名でいこうとなればだいたい月岡、ということになるのだった。

「おれは鉄砲玉かいな とブツブツ」だ。

組合としての気づかいは有刺鉄線でケガする可能性があるので、皮の手袋を貸与すると、「敷地に侵入することは侵入罪で確保された場合の弁護士費用は組合でもつから心配するな」。「無傷での帰還を祈る」だった。

フェンスの内側には1.5メートルおきにコニファーブルーのような樹が植えられていた。門に近い樹が一番大きく枝もあるので、管理者たちに気づかれないようその裏からまずフェンスを上って会社内に侵入する。その間は組合員は門の反対側に集まって全員でインターナショナルを合唱し管理者たちの気を引き付ける、いわば陽動作戦だ。つづいて風呂敷につつんだ弁当と下着類を投げ入れる、受け取ったら直ちに組合事務所に駆けて投げいれる、最短距離を走ってフェンスを越えて帰還する。というのがシナリオだった。さすがアニメの会社だけあって空想だけではないリアルなシナリオもあるんだーと感心する。

論を待たずただちに実行、鉄条網にシャツが引っかかり破ける音はしたが侵入成功、すぐさま風呂敷づつみが落ちてくる、間をおかず組合事務所をめざし突進する、このころはまだスニーカーなんてものが無かったので靴は革靴だ。

走り出すと下はコンクリートだから、靴音もバタバタと小さくはない。建物の影に潜んでいた管理職や警察も半身出して何事!と目を見張る。それに気づいた3役たちも下開封の鉄枠窓を目いっぱい開けている、すかさず風呂敷包みを投げ込むと同時に一番近いフェンスめがける私、我に返った警備の面々もすかさずこちらに向かって駆け出す、フェンスを二手掴んだところで足を捉えられるも、何回かその手を蹴ったらしく(この部分の記憶は曖昧だが 蹴ったらしいのだ)手が離れるやフェンスを上がりきったところで外にいる組合員の手を借りて着地成功。管理者の一人(村山という)のどちらかの手にかすり傷程度のケガをさせたらしいのである。

ロックアウト騒動が正常に戻り、村山氏に会ったとき、その時月岡が不法侵入した証拠写真と職員の手に怪我を与えた罪とで留置されるのだぞ、と脅されたのだが写真の中に顔は映っていなかったらしくケガも訴訟に持って行けるほどのものではないとか、で結局お咎めはなかったのである。

これが私の東映時代4回目の大運動会での優勝だったが「またまた ちみか」のお言葉がほしいところでもあったがなにもなかった。