《追記 2026年9月14日》読者の北島氏よりご指摘をいただき、人名の誤記を修正しました。藤川桂介・山本暎一・舛田利雄・平田昭吾・岡迫亘弘、および創映社(サンライズ)設立メンバーの伊藤昌典・渋江靖夫の各氏です。ありがとうございました。

元々ほとんどのアニメにはストーリーと言うものはあるのだが、アニメを生業とする立場で言えばアニメにしか表現できないもの、ストーリーも大事だが、それと同じかそれ以上に大事なものがアニメーション性というものなのだ。アニメーション性が高くてそこに尚ストーリーが見えたら最高だろう、という考え方がある。橋本氏の言うテーマから物語・そしてキャラクターにいく、の反対読みなのだ。

しかし今日コンピュータやAIが登場して以来、アニメにしか出来ないものはとても少なくなってくるだろうが、しかしそれでもAIにできないアニメの表現はあるのだということはこのblog前半で書いてきた。

しかし人間と言うのはどんなに優れたアシスタントor AIの仕事でも満足できないことがあるものだし、それは唯一人間にしかできない芸術の領域として残しておく愉しみにもなるのだろう。将来AIにはできないものコンテスト、なんてものが出てくるかも知れないのだ。一方で人間の一生とは長いようで短いものだ、やっとのことで物事が分かりかけてくれば代謝の期限となる。

日本のアニメの始まりについて書かれた本は沢山あるが、私は蔑称語だったジャパニメーションの渦の中で仕事をしてきた一人として、ジャパニメーションのスタート時から見てきたこと聞いてきたことをここで書き留めている。

それはテレビの「鉄腕アトム」(1963)から始まり二つ目のエポックになったのはやはり「宇宙戦艦ヤマト」(1974)であろう。ヤマトは奇妙な出生で生まれて、爆発的な人気を保ち続けた言わばコンテンツの一つであった。

プロデューサーは西崎義展氏だが彼は手塚師匠の4代目のマネージャーを勤めた人である。私がアシスタントになったころのマネージャーは2代目の今井義章氏。私が東映動画に移籍したあと虫プロ商事が設立されると同時に今井氏は商事の社長に就任していた。その後3年ほどラグがあり、3代目マネージャーを勤めたのが私の少し先輩アシスタントだった平田昭吾氏である。その一年後に西崎氏が入り平田とタッグして師匠のマネージャーになっている。

西崎氏は虫プロから独立したあと「オフィスアカデミー・社」を設立し、手塚師匠の作品「海のトリトン」「ワンサくん」などのアニメを作っている。平田は西崎とほぼ同時期に手塚プロを退社し、福島県会津にあった実家の向かいにゴジラで有名な円谷一氏(特撮監督)の実家があった関係で、円谷氏のアシスタントになっている。そのころは30才を越えている筈だ。

円谷氏はあの有名な映画「ハワイ・マレー沖海戦」の特撮が忘れられず、ウルトラマンか何かの次回作として「ヤマト」をTBSに提案したのだが、にべもなく却下された話をしてくれたという。そこで平田は実写ではなくアニメにしたら動いただろうにと提案し、彼自身がそのアニメ版ヤマトの企画書を書いたのだった。

当時の東京都民は大気汚染スモッグと水質汚染で苦しんでいた。宇宙のどこかに汚染を除去する技術を持つという星を目指して旅をする物語を作ろうという提案だ。それ言ってみればSF版「西遊記」であり当初から平田は言っていた。しかし結局円谷氏はTBSに持ち込みはしなかったようだ。

そのころ3作目の企画に困っていた西崎は平田に3作目の企画を相談したのだ。平田は自身が書いたヤマトの企画書をみせたところ、西崎は即座にそれを100万円で買い取ったという。「百万で売れたよー」とも平田は言っていた。この「宇宙戦艦ヤマト」の元ネタは特撮監督の円谷一に始まるのだった。

プロデューサーとは

西崎・平田コンビはこれをシナリオ化するにあたってまずライターの藤川桂介氏と連絡をとり、「ジャングル大帝」の製作が終わっていた山本暎一氏に声をかけてこの4名でシナリオづくりを進めたのだった。その後西崎は売り出し中のSF作家豊田有恒氏・映画監督の舛田利雄氏などに声をかけていったという。

シナリオの骨格大気汚染が放射能汚染にと変わり全体が整ってきたあたりからキャラクターデザインを誰にするかの検討になる。マンガ家5名の候補者のうち選択のミーティングで西崎は松本零士氏を指名するが、ほかの3名は反対だったという。西崎「俺は契約のプロだよ、問題ないよ」と進めたそうだが、数年後「ヤマトの著作権は我にあり」と訴訟を起こしたのは松本氏だったのだ。結局松本は敗訴となっている。

ヤマトが大ヒットするとメデアはキャラクターを描いた松本に焦点を当てることによって、ヤマトを創ったのは俺じゃないか、と勘違いを起こした出来事だったのだ。

平田は手塚プロを離れても手塚プロのある西武線富士見台から遠くない江古田駅にオフィスを構えていた。彼はマンガ家になることを諦めアニメ絵本の出版に転じ、作家業にシフトしていた。駅北口前の喫茶店の一角がミーティングルームになっていて、私が毎週一日通う職場の通り道にあるので、少なくとも月1~2回ほどはそこで会っていたのである。

そのころ平田は同じ江古田の喫茶店から60メートルほど離れた場所に日本で初めてマンガ喫茶という名の店を持っていた。私は本人が経営者なのか、出資者だったのかまでは知らないが、おれの店という言い方をしていたし、マンガやアニメの情報を出していたらしいことや、あのヤマトの宣伝拠点として随分役だっていたことは知っているのだ。

ヤマトの話に戻そう。ヤマトについて詳しく知っている人が多いとは思うが、読売テレビ(日本テレビ)1974年で放送開始し、あまりの低視聴率で私の記憶で(2~3%)代だったと思う。3週間目にして放送終了命令が出たのだった。スタッフ・プロデューサーは仰天動地である。この時すでに6本目ほどの製作が進行していたのである。

メインスタッフが招集され善後策にはいる。テレビがだめなら映画があるじゃないか、平田も円谷映画の経験があり、山本も「ある街の物語」での経験があった。6本分のフィルムに少し手を加えて一本の劇場向けの作品につくり替えたのである。

日本の多くの、映画館のマーケットシェアをもつ映画3社にフィルムを持ち込むが低視聴率だったことを知る3社には拒否され、最後の賭けとして独立系の劇場を探すことになる。渋谷駅前の東急レクを自己負担で3日間の予約をとったのだ。あとは宣伝と前売り券の格安販売、捨て身の作戦だった。私から見て無料で配っていた節もあった。

ここで平田のマンガ喫茶が大活躍を始めるのだった。アニメとマンガのコアなファンが集う場所として東京でも最初に登場した場所だったし、一方の西崎は民音(民主音楽協会)労音(勤労者音楽協議会)労演(勤労者演劇協議会)という当時イベント鑑賞のための3つの巨大組織に働きかけて、前売り券の格安配売を行ったのである。

東急レクは僅か300席足らずの小劇場だから席が埋まるのに時間は掛からなかった。入れ替え制だから徐々に劇場外に人が並ぶ。初日の夕方には劇場を取り巻く行列はサクラもふくんで一周半を越えつつあったのだ。ここを見頃・焼き頃とみたスタッフはパブリシティに電話で働きかける。2日目の読売新聞夕刊3面にはこのニュースが載ったのだった。3日目になると行列は3周を越えていたし、テレビニュースが捉えていた。

3日目の夜は4日目の朝まで上映は続いたが、劇場に入り切れない客が相当のこったのだった。これは各社のニュースとなり4日目の朝刊夕刊の紙面を飾ったし、ほとんどのテレビのニュースがとりあげていたのだ。

これがアニメブーム2回目の始まりだったのだ。かくしてヤマトは10年間で10本前後の作品がつくられるブームを続けたのであった。これは唯一アメリカのフリースタイル型のプロデューサーが日本で誕生したことと、そこまで成したプロセスの概略を書いたものである。

ヤマトの成り立ちを描いた情報はとても多いのだが直接ヤマトの仕事をした多くの人の立場から書かれており、私はこのスタッフ外の人間であったが、多くの仲間キャラデザの岡迫亘弘(岡ちゃん)ヤマト何本かの作監をやっている高橋信也(信ちゃん)は狼少年ケンのスタッフであったし、西崎と強い交流のあった平田に今井氏あるいは当時の新聞などの情報にもとずいているものだ。

多くの人の発言をみていると、目隠しをした人たちがヤマトという象の体の一部に触って、象のイメージを語る姿に似ているようだ。私は部外者だからフォーカスは甘いが全体がもう少しよく見えていたかも知れないのだ。ヤマトの中心部にいた西崎氏のインタビューなどでも、虚実ない交ぜで語られたものを沢山見せられてきたものだった。

西崎氏に関しては誰もが仰天するようなエピソードが幾つかあるが、アニメと直接関係がないと言えば無いのでここでは控えさせてもらう。

西遊記と日本人

さてこの宇宙戦艦ヤマトが西遊記とどういう関係があるのかについて少し詳しく書いておきたい。西遊記は日本人なら年寄りから子供までよく知る物語である。ヤマトの次に大ヒットを続けたのが「ガンダム」あまり間をおかず出てきたのは「ドラゴンボール・鳥山明」だろう。このドラゴンは誰もが知る「西遊記」と「南総里見八犬伝・曲亭馬琴・1814」をミックスしたものである。

大のつくヒット作などそうあるものではないが、大ヒット作2本目と4本目にも西遊記が存在したのである。なぜ西遊記なのか、好まれるのかの研究はまず見たことがないので少し書いてみたい。

西遊記は言うまでもなくアジアが誇る中国生まれのファンタジーである。子供がわくわくして楽しむ幻想物語である。ファンタジーだと言うと、これには王子も姫も魔法使いも出てこないし、王子の結婚も自立もなく、ユング理論の手が及ばないカオスな世界なのである。

昔40年以上になるがある本で読んだものに「西遊記」は江戸時代から翻訳本が沢山だされていて昭和の初期まで200に及ぶ本に戯曲本・小説・紙芝居・絵本・マンガが書かれていたという。では私も戦後、切のいい1950年からどれほど書かれているかを調べたことがあった。細かいデータ類は失われたのだがざっくり言えば翻訳本から絵本・マンガ・小説・ゲーム・映画・テレビ・芝居を含めると200は優に超えるのだ。

実写版テレビの1時間もので4年間あるしアニメ版36本を合わせて244本はあり、エノケンの映画も3本はある。中野美代子氏一人だけで全十巻も書いているし、「SF西遊記」を名乗るものもあるし、外見だけでは分からないアレンジのつよいもの、たとえば「宇宙戦艦ヤマト」がそうだ。企画の動機を知らない人にはヤマトが西遊記の骨格であることが分からないものも幾つかあるのだった。

マンガと小説を入れると250は越えてしまうということは戦前のものを合わせたら500前後のコンテンツがあったことになる。西遊記の発祥地の中国にはどれほどあるものかを、調べてもらうように中国人留学生に頼んだことはあったが、いまだに返事は貰っていない。しかし日本を越えるほどはないだろうとは容易に想像は着く。なぜなら大昔から中国で生まれたものは時をおかず大抵は日本に入っているからである。

なぜに西遊記はこれほど姿を変えてでも何度も受け入れられるのか。作者は明時代の呉承恩という説はほぼ否定されているが、今だに作者が特定はされていない。敦煌の莫高窟(西暦366年から)の壁画にはすでに猿を連れた玄奘三蔵の画が描かれているという。私も見に行ったが、修復保存のためか見学者が入れないところも多くあり確認はできないのだった。壁画の三蔵になぜ犬でもなく猿なのかが、疑問の一つ目だった。

リアルなはなし629年天竺(インド)に仏教の教えを乞うために一人で旅をつづけた玄奘法師。玄奘三蔵法師の旅物語なのだ。三蔵とは仏教の3つの教えに熟知した人をいう尊称なのだという。三蔵法師は複数人いるので、この法師を本名の玄奘をつけているのだが、物語の西遊記は猿の孫悟空・豚の八戒・人間姿の沙悟浄・馬の玉龍いわば群像劇の始まりではないかと私は思うのだ。

なぜインドに

なぜインドに行くのかと言えば、取教の旅(求法の旅)つまり佛典を求める旅なのである。そのころ世界の大都市であった西安は爛熟期を迎えていて、エセ(似て非なる)宗教、エセ文化人、エセ科学のたぐいが多流行りしていたという。玄奘三蔵は世を正すべく、自ら難渋の旅に向かったのであり、これが物語のコア・核心になっている。

物語における三蔵法師はどちらかと言えば軟弱書斎型のリーダーの趣なのだが、交通機関の無い時代西安からインドの目的地までは3万キロメートル。徒歩で日数にすると1400から1500日かかるという。往復日数にして17年間掛かっている。現代人には想像できない長旅だし、どこぞで怪我でもしたらと思うとオリンピックチャンプ以上であり、スーパー鉄人であるのはリアルな話なのだ。

物語である西遊記のはなしに戻すと、これは個性的で賑やかなキャラクター群の旅で、108話の物語・ナラティブで構成されている。読んでいても見ていても退屈することはないお話しであるのと、108の由来は人間を苦しめる欲望(煩悩)を表す数字だという。欲望を意識しコントロールできるのが仏教における解脱であり、修行を意味するものなのだ。

そこで西遊記物語をまとめた人はきっと仏教徒かその指導者だった可能性はあるとも言われるのだ。なんにしろ莫高窟は修行のための小さなものから大きなものまで無数にあるのだ。24時間修行だけじゃあ息が詰まろうというもの、ときに三蔵法師の物語が語られ妄想心のリフレッシュにもなっただろうと想像できる。

108話とも戦う相手は妖怪か物の怪であるから、生物としての命はもともと無いのだから、実は自からの煩悩を象徴化しているので、煩悩と一緒に108の旅を続けているというものなのだと私は思う。自分たち一行の手に負えない相手の場合には突然観音様がジャッジに入るというシーンが何回かある。この観音はメンターアドバイサーかカウンセラーの役割りなのだろう。

ちなみにカウンセラーが世界一多いというアメリカでは、こういう職業に関わる人が10人に一人はいるという話しを聞くのだが、本当かどうかAI氏に確かめたら4億人割る793,500人だから、約50人に一人であった。それにしても少なくはないだろう。ここまでは「西遊記」がもつモチベーションについて書いてきた。

一方夢分析で有名なカール・ユングによれば、我々が描く物語とは、夢でよく見るナラティブをギリシャ神話のペルセウスの物語に例えて、旅立ちから様々なキャラとの出会い、経験メンター(知恵者・アドバイサー)との出会い、最終悪(煩悩か)との戦い(自我の確立)に勝利し、結婚相手に恵まれ結ばれるとする成長ストーリーにまとめた、人間の意識のモデルではないか、と捉えていたと思う。

これは神話学のジョーゼフキャンベル氏もよく似た理論の立場だし、日本の心理学の第一人者河合隼雄氏でも日本神話のスサノウをトリックスター(道化とか破壊者)と捉え、ヤマタノオロチを退治しクシナダヒメと結婚し自己確立を果たしたように書いておられるが、神話のペルセウスもスサノオもその後何回も結婚しているし、ハチャメチャな人生はつづくし悲惨な末路を辿っているのだ。

これにどこが自己確立なのだろう、ユング派の先生たちはご自分の論理に都合の良い部分だけをチョイスして使っているように思えるのだ。その物語論は、18世紀ヨーロッパにおける産業革命時代に多くの技能労働者と植民地支配のための軍人教育が現在にまでつづくのが近代教育なのだが、この指針とよく似ている理論なのではないか、と考える。

つまり均一なレベルのサラリーマンとオペレーター育成のための近代教育の理念とユングの物語論はみごとに同調しているように思うのである。

旅立ち―経験―教育―結婚―成長―雇用か戦地へ

こんなフローチャートならまっぴらごめん、と言いたいところである。

こんな直線的モデルより私は分子モデルか化学構造式のように手を沢山持つ分子が、より多くの分子と手をつなぐような立体型モデルのフローチャートをイメージしたい。AI時代にこの指針自体、現状にはそぐわないと解っていてもなかなか変えられないのが現実なのではないか。19世紀の建築家フランソワ・レオタールは、近代建築というものは人間を幸せにはしないと書いて、建築の脱近代化・ポストモダニズムを提唱した人だ。

そのポストモダンは日本で見つけたよ、と書いたのはドイツの建築家ブルーノ・タウトであった。物語におけるポストモダンは西遊記に隠されていた、と私は考えている。

現在よーく物語にこの成長と自己確立が言われるのだが、西遊記にはこれが見られないのは何故だろう。「西遊記」は宗教者が書いたものだから神話ではない、と言うだろうがギリシャ神話と同じように口承によって伝わった物語というてんは同じであるし、神と仏の違いを説明することは簡単ではないだろう。この西遊記では誰一人として結婚はしないし成長もしてはいないのだ。

西崎氏はアメリカ型独立独歩のプロデューサーで私は高い評価をしていた。ヤマト第1作目の興行収入が21億円・2作目43億・3作目25億・4作目17億円。100万円で買った企画書が100億円に膨らんだのである。西崎は大成長の大成功者だ。外車も外洋船も集めて当然だったのだが、妙な鼻薬の使用で塀の内側に落ちてしまい、やっと塀の外に出て趣味の船に乗ったら今度は船から落ちて行ってしまった。

はたして彼の自己確立後の晩年は幸せだっただろうか、ご冥福を~。

現代において成長だ・自己確立だと言われるほどに人は孤独を抱えることになるのではないかと私は思うのだ。物語のキャラに成長なくして何が悪いか、と聞きたいくらいだ。成長したところでこの温暖化を止める手立てもできない、18世紀に戻ったような戦争の姿は成長なのか、人間には退化もあると考えさせられるのだ。

群像と三蔵

西遊記は群像劇であり、キャラの4人ともたいへん個性的であり衝突も少なくはないし仲がいいとも言えないが、一旦事が起これば結束もするし家族の様相を現すのだ。家族のための自己犠牲も厭わない姿に共感をみせることがある。こうした構造はドラゴンボールやワンピースなどにも色濃く投影されているからうけるのだと思う。

孫悟空のヒストリー

三蔵法師のお伴をする兄貴分の孫悟空はまず猿である。その猿は四川省方面に生息する金絲猴という猿がモデルではないか、という説があった。しかし中国の歴史の中で猿が読み物とか見世物の中に入ったものは西遊記以外にみあたらないし、古代ではゼロなのだ。ではそのモデルはどこから来たのか始まったのかと言えば、インド以外には見当たらないのである。

インドにはハヌマーン猿と言う有名な猿がいるし、しかもハヌマーン猿は神の使いとして現在でも特にヒンズー教寺院のあるところでは大切に扱われている猿なのだ。東映動画の第1作目は「白蛇伝」2作目が「”猿”飛佐助」第3作目の作品は手塚師匠作の「西遊記」だった。いずれも民族色の濃い素材であった。私はこれを企画した人は誰かという疑問があって調べたことがあった。

白蛇の方は赤川孝一さんらしいし西遊記の企画者は同じく中国帰りの渾大坊五郎さんだろう事も分かっている。というのは実際に仕事を進めた人と公式データが異なるのは現場のならいであったのだが、私は手塚師匠の助手として「西遊記」には初めから最後までこれに付き合っていたのでよく知っていた。

渾大坊氏はこれからは、胸を張ってアジア色を打ち出さなければ、というお話しをしていたし東映動画4本目までアジア色が続いたのだ「なるほど」と私。3作目は手塚師匠を起用し前2作とちがった、師匠の持ち味であるディズニー的な色合いに期待しているはなしもされていた。

営業部はアメリカと交流をもつ代理店とともに積極的にアメリカにセールスしたのだが、思ったほどビジネス的な評価が低かったらしい話も聞いていた。その理由の大きい一つが主人公の猿だという。「アメリカで猿はだめなんだよ」何故か知らないが猿は売れないのだという話しは幾度か耳にしていた。確かに日・中・インド以外に猿のキャラはゼロとは言えないが、主人公だという猿は見たことは無かったのだ。

ダーウィンに嫌われた猿

猿が売れない理由として考えられるのはダーウィンの進化論にあったのではないか、というのは私の見立てである。その理由はこうだ。ダーウィンの進化論(1859)は発表時には徹底的に叩かれたではないか。猿も人も同じルーツをもつとは何事かバカモノめ、最後の装飾は余計だが、アダムとイブにさかのぼれば人間は神がご自分の姿に似せて創ったものであり、神の創造物であったのである。

しかるに猿と同じルーツがあるとはたわごとだ、と言ったかどうか、批判を浴びたらしいことは分かっている。そうしたもの地動説でさえ捨てられない信仰者は現在でも相当数いるという。人間と同じルーツを持つなどと考える猿もけしからぬ・やからだと、とんだとばっちりを受けているのが、猿サピエンスなのだろう。ディズニーアニメには一度だけ猿のキャラをみたことがあった。「トイストーリー3」・おもちゃが活躍するお話しだ。

おもちゃの部屋を支配するピンクのクマ、ロッツォの忠実な部下の監視員スージーとして出てくるキャラが猿だった。異常を発見すると両手に持ったシンバルをメチャクチャに叩く統合失調症のようなキャラが猿だったのである。何故か猿にいい役は与えられないのであった。では猿のキャラが受け入れられているもう一つの国のインド事情を見てみよう。インドのヒンズー教寺院に行くとそこはハヌマーン猿の天国なのである。

ハヌマーン猿はインドの古代叙事詩「ラーマヤーナ」の主人公の盟友でもあり、最後の戦いでは猿軍団を率いてラーヴァナ(羅刹)と戦って勝利にみちびくキャラでもあったし、より古いルーツをさぐるとハヌマーン神の生まれ変わりのようで古くは神だったのだ。

ラーマヤナの悪役ラーヴァナを漢字で翻訳すれば(羅刹)とある。どこかで見たような、中国アニメの第1作目のタイトルが「鉄扇公主の巻」ではないか。その鉄扇公主の名が羅刹女である。火炎山の火を消すことが出来る扇(うちわ)を持つ姫が羅刹女なのであったのだ。公主とは皇帝のお妃かお姫様の尊称である。

中国でその羅刹女と戦うのが孫悟空という猿とあれば、孫悟空という猿がどこから来たのかは容易に想像がつくというものである。神話におけるハヌマーン猿の特性として

  • ① 大空を飛び回ること
  • ② 自分の体を大小自在に変えることができる
  • ③ 分身を創り出すこと

などは孫悟空の特性として同じではないか。

いつのころからは知らないが中国と接するインドとは関係がしっくりこないということなので、中国は孫悟空のルーツについて多くを語らないが、古代の三蔵法師でさえ留学した国であれば是非とも仲良く交流をしてもらいたいものである。しかし日本とて同じこと、弘法大師も最澄も明庵栄西も中国に留学しているではないか、「他国のことを言う前にお前の国はどうなんだ」、と言われるのは分かっている。

どうすんだ日本―ダメでしょ(強く)。

ヤマトとガンダムの赤い糸

また少し話が逸れるが、西崎の盟友平田のエピソードをもう一つ、ある時「ガンダムのアイデアもおれなんだよー」とつぶやいていたことがあった。「嘘つけ―」と私。平田の話はこうである。ガンダムの製作会社サンライズは虫プロ倒産後、虫プロ制作人のスタッフ岸本吉功、(通称きっちゃん)伊藤昌典、(伊藤ちゃん)山浦栄二、(山浦さん)渋江靖夫(しぶやん)を中心につくられた会社だった。

山浦さんは東映動画撮影部出身、伊藤ちゃんはフジテレビから転職者、社長のきっちゃんと渋やんは虫プロ育ちの全員が制作系だから主な業務はペイントと撮影などの仕事でスタートしていた。あるとき名古屋テレビからアニメ企画の番組を持ちたいというオーファーが飛び込んできたという。地方局だから予算もキー局の半分ほどだったが社長のきっちゃんはやる気十分だった。

あるとききっちゃんはこの話をヤマトの成功で波に乗る平田に相談したそうである。「戦艦を宇宙にあげて成功したんだから、今度は戦車を宇宙に飛ばしたらどお~」と提案したという(異質の結合である)。きっちゃんは「そりゃいいねえ」というところから進んで出てきたのがガンダム構想の始まりだったという。私はこの話が本当かどうか他のスタッフに聞いてみたが誰も知らないし「ウッソだろー」と言った人も一人いた。

きっちゃんは夭折してるので確かめる手立てはないのだが、平田は突飛なアイデアを出すおもしろい男だが、多分に風呂敷を広げる男でもあったので半信半疑のまま、本当ならおもしろいはなしで、アイデアとは案外こんなことで生まれるものなのだろう。

ガンダムの放送は名古屋テレビから放送開始されたのだが当初から視聴率は低迷して、記憶ではヤマトと同じように5%前後だったと思うが、8本目の放送あたりで放送短縮命令をくらったはずである。

(視聴率低迷)、と(放送中止or短縮)と(大ヒット)は特徴的な共通点なのだ。

既存のメディア(雑誌など)で知られた人気コンテンツがアニメ化されるものと、テレビオリジナルとの違いがこれに見て取れる。いまのテレビがオリジナルをやりたがらないのはここにあるのだろう。