本当らしさ
この二つの言葉は、案外ごっちゃにされている。 若い学生たちだけではなく、プロの人たちの間でもそうなのだ。
まずはそこを、少し考えてみたい。
アニメというのは、とにかくたくさんの画を描く仕事である。 一秒間に24枚。
フィルムの時代、初期のアニメはそのコマ数ぶん、すべて描いていた。 一コマ撮り、つまり一枚ずつだ。
ところが、一枚の画を2コマずつ撮影しても、それほど動きは変わらない、ということが分かってきた。
もちろん、よく見れば違う。少し硬くなる。
しかしそのぎこちなさをどう防ぐか、というところから技術が生まれていった。 言ってみれば、それもまた一つの歴史なのだ。
テレビアニメになると、今度はスケジュールや予算の制約がある。 2コマ撮りどころか、3コマ撮り、4コマ撮りというものも出てくる。
するとさらに、「どうやって柔らかく自然に見せるか」という工夫が必要になる。
結局は同じことで、どうしたら自然に見えるか、というところに戻ってくる。
そこで、自然に近い動きを実現したものを「リアリティがある」と言うようになった。
ただ、このあたりで言葉の使い方が少しずれたのではないか、と私は思っている。
“リアリズム"は自然主義。 “リアリティ"は本当らしさ。
似ているようで、少し違う。 ここがややこしい。
アニメは、言ってしまえばつくりものだ。 この前提は避けられない。
だからこそリアリティが必要になる。
「つくりもの」という言葉も、あまり良い言い方ではないのだけれど、フェイクとも違う。 さらに言えば、フェイクと偽物も同じではない。
フェイクにはどこか悪意があるが、こちらはそうではない。 映画やアニメは娯楽であると同時に、精神に関わるものでもある。
単なるモノとも言い切れない。
だから作り手としては、このあたりははっきりしておいた方がいい。
物語は創作であり、アニメもまた空想から生まれる。
リアリティというのは、その中に「本当らしさ」を持ち込むことだ。
観ている側も、それを現実とは思っていない。 それでも笑うし、楽しむものだろう。
そこにはやはりリアリティが必要になる。
これを言い換えれば、共感だろう。
リアリティがなければ、誰も笑ってくれない。
ここで一つ、はっきり言っておきたい。
リアリティをつくるのに、リアリズムは必ずしも必要ではない。
ここは大事なところで、押さえておかないと、また混同が起こる。
長島正太郎さんのこと
長島正太郎さんという人がいた。
1970年代の中頃だったと思う。 ある日、突然私のオフィスに現れた。
「日本アマチュア・アニメーション協会の会長長島です」
そう名乗る。
体は私と同じくらいで、小柄な人だった。 だが驚いたのは、運転手付きの車で来られたことだ。 クラウンだったと思う。
何事かと思ったが、用件は単純で、「月岡さんと話がしたい、交流したい」ということだった。
それがきっかけで交流が始まり、私も何度か協会の方々と付き合うことになった。
そこでさらに驚く。
長島さんは建築会社の社長。 熊沢さんは老舗のお菓子メーカーの社長。 ほかにも医者や郵便局の局長さんなど。
みなそれぞれ立派な仕事を持っている人たちばかりだった。
私は何度か彼らの集会に参加させてもらった。
御年は聞いたことはないが、全員私より二十歳くらい年上だったはずだ。 当時の私はまだ三十代にもなっていない。
それなのに、皆さん私を「先生」と呼ぶ。
どうにも居心地が悪かったのを覚えている。
彼らがアマチュアを名乗る理由は、8ミリフィルムを使っていたからだ。 8ミリは一般向け、つまりアマチュア用のメディアなので、公開のチャンスが限られていた。
だからこそ、プロとして活動していた私の意見を求めたのだと思う。
しかし、彼らの作品を見て、私はまた驚いた。
熊沢さんの作品も印象深かったが、特に長島さんの作品が忘れられない。
タイトルを失念しているので、ここでは仮に「トランプ」としておこう。 トランプといっても、変なイメージを抱くだろうがこちらはカードゲームのトランプである。
3枚のトランプカードがシェークスピアを語る
作品には人物は一人も登場しない。
出てくるのは、キング、クイーン、ジャックの三枚のカードだけだ。
キングとクイーンは夫婦だろう。 だからベッドでいちゃいちゃしていても、何の問題もない。
ところがキングがフレームアウトした途端、ジャックのカードがベッドにするすると入り込んでくる。
ここから話の様子が変わる。
王の苦悩、嫉妬、そして復讐――。
このジャックが王の子供なのかどうかは分からない。 だが、とにかく面白い。
思わず考えた。 これはシェークスピアの「ハムレット」ではないか、と。
「ハムレット」は、母と王の弟との関係から始まり、世界三大悲劇へと発展する。
長島さんの「トランプ」は三枚しか出てこないから、そこまでの大きな物語にはならない。
しかし、世界の物語の多くが嫉妬から始まるということを思い出させてくれる。
デュマの「モンテクリスト伯」もそうだ。 エドモン・ダンテスを取り巻く嫉妬から物語は動き出す。
三木清も『人生ノート』の中で、嫉妬の厄介さを書いている。
だが、ここで言いたいのは物語論ではない。
長島さんの「トランプ」におけるリアリティである。
この作品には人間は一人も出てこない。 建物もない。 あるのはベッドとカードだけだ。
それなのに、リアリティがある。
しかもかなり強い。
人間なら誰でも一度や二度は経験する、あの厄介な感情。 それを、たった三枚で見せてしまう。 どんなカードマジシャンでもできない技である。
これはたいしたものだと思う。
リアリズムはない。 だがリアリティはある。
それは人の精神の中に潜むリアリティなのだろう。
感動する、という種類のものではないかも知れない。 だが、確かに共感してしまう。
CMでのリアリティ
少し自分の仕事の話になる。
私も画を使ってものを作る人間だから、リアリティということは日常的に頭の中にある。 ジェスチャーとか、ちょっとした動きには人より敏感なところがあると思う。
私が50代くらいの頃だったと思う。 ある大手スーパーのCMをシリーズで作っていたときのことだ。
毎月セールがあるので、そのインフォメーションのためのCMである。
日本のCMはだいたい15秒。 正確に言えば、最後にクライアントのロゴが2〜2.5秒入るから、中身は12秒ちょいしかない。
イメージCMならまだしも、インフォメーション中心のものは、正直あまり面白いジャンルではない。
そこでエージェントから「かわいい動物のキャラクターでやってほしい」という話になった。
合計で10本以上は作ったと思うが、その中の一本の話をしてみたい。
キャラクターがしゃべるわけだから、当然ナレーションと口のシンクロが重要になる。
いわゆるプレスコ。(プレ・レコーディングの略。) 先に声を録って、それに合わせて口を動かす。
これもリアリティの一つの技術である。
録音スタジオに入る。 プロダクションから来た子供の声優、男の子と女の子。
私は隣の調整室にいて、オペレーターと一緒に指示を出す。
ヘッドホンで聞いている。
最初のテイクはNG。
すぐにテイク2に入る。
そのときコピーを読んでいる女の子のフレーズの途中で、ほんの軽く鼻をすする音が入った。 かすかな音だ。
普通なら即リテイクである。 オペレーターも当然そう思って、次の準備に入っている。
私は慌ててストップをかけた。
「今のテイク、消さないでー」
プロデューサーも、エージェントも、周りにいたスタッフも、「なぜ?」という顔をしている。
私はそのテープを何度か聞き返した。
かすかだが、確かにその音は入っていて安堵する。 心の中ではやったーと叫んでいた。
その鼻すすりの音を、ほんの少しだけボリュームを上げてもらう。 気づくか気づかないか、その境目くらいに置く。
それをシネテープにコピーして、音の位置を正確に測る。
そこから先はアニメーションの仕事だ。
鼻をすする動きというのは、大げさなものではない。 だから鏡の前で自分で何度かやってみる。
鼻と口の間が、ほんのわずかに動く。 そのわずかな動きを拾う。
動画枚数にして4枚くらいだったと思う。 ほんの一瞬だが、思い通りの効果が出た。
このシリーズの中でも、出色の出来だと思った。
完成試写では、スタッフにかなり受けた。 笑いが起きた。「これはいける」と思った。
ところが、放送開始直前にストップがかかる。
クライアントからのクレームだった。 理由は、あの鼻すすり。
「食品も扱う会社なので、不快感を与えたくない」 そういうコメントだった。
結局、アニメはそのままスタジオでその部分の音だけをカットした。
私に落胆はなかった。 むしろ、4枚の画でリアリティに迫れたことに充実感があったからだ。
日常で鼻をすすることなんて、誰にでもある。 それを不潔と感じるかどうかは、また別の問題だ。
日本では一日に3000本ほどのCMが流れると言われている。 全部覚えている人はいない。
でも、「あれ?」と思う一瞬は記憶に残るものだ。 その一瞬を作るのがリアリティだと思う。
もう一つ、CMの話
これも自分の仕事の話だが、書いてみよう。
1995年頃だったと思う。 私はCMを多く作っていた。
あるパソコンメーカーの仕事だった。 ここではF社としておく。
当時のシェアは、N社が40%、F社が18%、A社が15%。 F社は少し出遅れていた。
そこで巻き返しを狙う。
コピーライターのⅠさんのもとで、私はアニメで参加した。
ライバルはすでに官公庁や教育機関・学校を押さえている。 こちらF社は家庭向けを狙うことになった。 パソコンはある意味突然出てきた機械であり、アプリやらなんやらと冷たいイメージが付きまとうのだ。
インターネットもまだ使いこなせないお父さん向けに。 家庭内のちょっとした風景を。
キャラクターは、少し人間味があって、ちょいとだけ"お色気"も入る。
コピーもよく出来ていて、話題にもなった。 売り上げも伸びていった。N社にも迫っていった。
年間2本ずつ、合計で10本くらい作ったところで、突然中止命令が出る。
理由は「企業イメージが悪くなる」。
後から聞いた話では、トップの奥様が気に入らなかったという。
単純な線で描いたアニメで裸はない。 放送倫理規定に触れていたわけではない。
ただ、感じるか感じないかの問題。 空気の問題だ。 奥様はそれを敏感に感じとっていたわけだ。
こちらとしては、「お色気と笑い」は計算のうちだった。 つまり、心の問題なのだ。
前のスーパーのCMもそうだが、私の作るCMはよく止められる。
これで三本目だったと思う。
倫理とリアリティ
ちなみに私は、ゲーム業界の倫理委員をやっていたことがある。 問題になるのは、だいたいエッチとバイオレンスである。
ゲームにも映画と同じように倫理規定がある。
ただし規定は文字で書かれている。 文字では限界がある。
どこまでが許されるのか。
そこはいつも議論になる。
例えばシューティングゲーム。
昔は銃で撃たれたキャラには黒いドットが飛び散る程度だったので、問題もなかった。
しかしPCの性能が上がると、血などがリアルになり、粘り気まで出せるのだ。
そうなると、さすがに気持ちのいいものではない。
少し抑えてほしい、とメーカー側にお願いする。 しかし反発が出る。
「どこまでがダメなのか、数値で示せ」と。
ドット数なのか、面積比なのか、示せだ。
議論はだいたいかみ合わない。
エッチの方はさらに難しい。
なぜそういう表現を作るのかといえば、売れるからだ。 大衆が求めるからである。
しかし一方で、子供への影響を心配する声もある。
どちらも同じ大衆だ。
私はときどき思う。
現実のニュースで人が亡くなっても何も感じなくなることの方が、よほど怖いのではないか、と。
ディズニーのリアリティについて
私はディズニーの作品の中では「ピノキオ」が好きである。
ピノキオは、自分を作ってくれたゼペット爺さんを、クジラのお腹の中から救い出す話だ。
クジラに追われ、筏で逃げる二人。 しかし体当たりを受けて、筏は吹き飛ばされる。
やがて浜辺。波が引いたあと、ピノキオは砂に長い鼻先を砂浜に突きさし、顔面半分埋もれたまま倒れている。
私はこのシーンを見るたびに、涙が出るのだった。 正確に言えば、その後ブルーフェアリーが現れてピノキオが「生き返る」場面なのだが。
話は少し変わる。
2010年頃から、ヨーロッパでは難民問題が深刻になっていた。 厳しい政策で受け入れを制限し、追い返す状況も続いていた。
それでも人は流入して来る。 粗末な船で海を渡り、沈没するニュースも絶えなかった。
2015年、トルコの海岸に打ち上げられた一人の少年の映像があった。 テレビで見た。 そのとき私は「あっピノキオ」と思った。
ピノキオと同じ5才ほどの子がまったく同じように、一人海辺に両手を下にさげたまま倒れていた。 新しいのだろうシャツと半ズボンのまま。
おそらく、新しい場所に行ける、という希望があったはずだ。
それを見たとき、涙が止まらなかった。
これは、ピノキオのあのシーンが重なっていた。
ブルーフェアリーが来てくれたらと、思ってしまった。
ピノキオは1940年。 この出来事は75年後のことである。
この映像は、ヨーロッパの政治家たちを動かしたとも言われている。 ドイツのメルケル首相が難民政策を転換した、という話もあった。 一斉にEUの政策も寛容政策に転換したのだった。
映像には力がある。 事実と真実を写す力。
一方で、「ピノキオ」は作り物だ。
それでも涙が出る。
これはリアリティだけでは説明できない。
ピノキオは旅をして、つらい経験を重ねて、最後に帰る場所を知る。
やっとの思いで帰宅するが家族不在。
聞けば、ゼペット爺さん、金魚のクレオ、猫のフィガロと共にピノキオ自身を探す旅に出ていると聞く。
その感情の積み重ねが、共感を生むのだ。
そして最後の奇跡につながるのだった。
リアリティは共感を生むが、それだけで感動になるわけではない。
色気のリアリティのはなし
日本語の「色気」という言葉は、なかなか複雑だ。
男の色気と言われると少し考えるが、女の色気となると、セクシャリティのイメージが浮かぶ人も多いだろう。
ただ、ここでは画の話として考えたい。
色気というのは、昔から絵のモチーフの一つだった。
たとえば喜多川歌麿。 「ビードロを吹く女」などはよく知られている。
ただ、私はあまり強くは感じない。 むしろ鈴木春信のほうに、それを感じることがある。
ヨーロッパではクリムト。 肌の表現でも知られているし私も同感している。
藤田嗣治の「藤田ホワイト」も有名だ。 肌色のリアリティだろう。ただ藤田は日本人だからか描く線にさえそれを求めていたと思う。
ルノワールは女性ばかり描いているが、美しさはあっても私は色気をあまり感じない。
家庭にも安心して飾れる絵なのだろう。
きれいな裸婦絵は世の中にいくらでもある。 裸婦を正確に描けば色気が出るとは限らない。 色気とはなんだろう。
アニメの色気
アニメはもともと子供向けから始まっている。 だから色気を表現するという発想はなかった。
ディズニーがその見本だっただろう。
ただし、アニメには例外もある。
フランスのアニメ、「やぶにらみの暴君」(後の「王と鳥」)だ。
私は中学生の頃に初めて見た。
ここに出てくる王は、ディズニーの王とはまったく違う。
小柄で、小腹が出ていて、短足、しかも斜視。
だが、妙にリアルなのだ。
部屋に戻ってワインを注ぐ仕草。 あの手の仕草には、貴族の品格をのぞかせる。
鋭い目には猜疑心が満ち、どこかの大統領の目を思い出す。 虚勢たっぷりの歩き方にはコンプレックスを抱えた人間の動きがあった。
これは実写ではない。 アニメーターが作った絵であり動きだ。
だが、非常にリアリティがある。
私はこの王の演技は、どんな俳優にも負けていないと思っている。
もう一人、羊飼いの少女。 彼女の動きには色気がある。
大理石らしい床の上を裸足で走り回る姿。 バランスをとる腕のしなやかさ、手足の柔らかな動き。
ディズニーのどの姫よりも、私はセクシーだと思う。
アニメは動く。 だから、色気の表現には少し有利かもしれない。
東映動画のアニメ、長編第一作目「白蛇伝」というアニメがある。
この主人公はパイニャン(白蛇の中国読み)だ、日本では唯一エロティシズムのあるキャラクターである。
パイニャンは蛇の精、あるいは妖怪だ。 中国の民話では動物と人間が結ばれる話はとても多い。
そして大抵は悲劇で終わるのだが、東映のそれはハッピーエンドに作り替えられていた。
よく似たものがアンデルセンの「人魚姫」だろう。
二人が結ばれるためには、女性は人間にならなければならないが、その条件は過酷だ。
キャラが持つところの能力霊力などをすべて放棄しなければならないのだ。
パイニャンもまたここで苦悩する。 この苦悩するあたりのポーズや苦悶する動きがセクシーなのである。
そのほかには目の動きも見逃せない。 妖艶とも言えるだろう。
たとえばフェルメールの「耳飾りの少女」の目も有名だが、少し開いた口とあいまって無垢さがまさっている。しかしいい絵だ。
パイニャンをつくった人は東映動画のエース大工原章であった。
フランス・日本ときて、次のアニメ大国アメリカをみる。
ディズニーにはそうした作品は無だが「一人ニューヨーク派のアニメーター」がいた。
ラルフ・バクシがいた。(1938・パレスチナ出身)
「フリッツ・ザ・キャット」「ウォリアーズ」「ヘイ・グッド・ルッキング」「指輪物語」「ファイア&アイス」など他、多数。
フリーセックスを標榜するヒッピー世代の人だからデビュー作の「フリッツ・ザ・キャット」が、猫社会の猥雑な雰囲気を存分に描き出していた。
その後の作品はライブ・アクション(モーション・キャプチャーと同じ)を使うものが多くなり、アクション・アクターの動きをそのまま使う方式だから、動きは生身の人そのままだ。
豊満な女性アクターは思いっきりセクシーポーズ・アクションを演出するのだ。
実写より線描のほうに色気が出ていた。
それは野生の色気とでも言おうか。
東映アニメーション(日本の色気は妖艶な色気) ポール・グリモー(フランスの健康な色気) ラルフ・バクシ(アメリカの野性的な色気)
色気というだけに色々あるものだ。
日本(アジア)線描による色気 EU 色彩による色気
色気には文化的、地域的にそれぞれ見方や考え方があるようだ。
色気とはなにか
色気というのは、外見だけではない。
呼吸。 間。 気配。 命。
そういうものだろう。
線の運び、色、ジェスチャー。 記憶の中の感覚。
すべて身体に根ざしているところだ。
表現とリアリティ
エロティシズムも表現の一つである。
なぜ人はそれを求めるのか。
それは、虚構の中に「本当らしさ」を求めるからだ。
リアリティは外側だけではない。 技術と精神が重なったところに出てくる。
写真や3D、AIはどんどん本物に近づいている。
しかし、それだけではリアリティにはならない。
AIの技術は追いつくだろうという人がいるがAIが皮膚を持てない限り無理なはなしだろう。
人間の描く画の線には勢いとか緩慢とかしなやか、惑い、色気などがある。
リアリティとは、現実を写すことではない。 人の心の中にある現実を感じさせることだ。
それは言ってみれば命の表現なのだろう。
人が共感するとき、そこから感動へ向かうプロセスが生まれる。
(あえて目的をフローチャートにするなら)
リアリティ —— 共感 —— 感情移入 —— 感動
この順番は、一枚の画においてもあるのだと思う。
過去の名監督、小津安二郎・溝口健二は1カットを撮るのに1日かかったという伝説は有名だ。
それはほんのちょっとした、これ、リアリティだったのだ。
それはセリフ(言葉)だったかも知れない。
これ、AIさんに"言葉に出来ないこと・どうすりゃいいのさ”。
これは私の記憶の記録でもある。 AI時代が始まって混乱している今、若い人のために書いたものだ。 私の思い違いもいっぱいあるかも知れない、注意して読んでもらいたい。
月岡貞夫