リミテッド(Limited)アニメとは、制限されたアニメであり、リミテッドの反対はフル・アニメ(full)、制限はないアニメをいう。
動物とは心臓があり、肺は呼吸しているからどこかがいつも動いているものだ、たとえじっと止まっていてもどこかが動いているものだという前提のもとにどこかを動かすというのが、フルアニメの考え方だが、リミテッドアニメは元々絵なんだから意味がなければ動かす必要はないのだ、と言う根拠があるのだ。
現代においては99.9%のアニメや映画は物語を語るメディアではあるが、実験映画以来の純粋映像がみせる映像ジャンルとしてはミュージック・ビデオなどに引き継がれてきた歴史があったのだ。
こうした流れの中でアニメーションはディズニー的なる自然主義から様式化の模索を経てリミテッドアニメが表れるのだった。しかしこれにはテレビメディアの出現と無関係ではなかったのだ。
リミテッドアニメの震源地はカリフォルニア・ロスアンジェルスであった。
- ステーブン・ボサストー(1911~1981) UPA(ユナイテッド・プロダクションズ・アメリカ)の設立者の一人。プロデューサー。「マックボインボイン」シリーズ、「近眼のマグー」シリーズなど。
- チャック・ジョーンズ(1912~2002) プロデューサー、監督、アニメーター。「ル・ニィ・ティーンズ」「メリィ・メロディーズ」「バグズ・バニー」シリーズ。
- ジョン・ハブリー(1914~1977) 「白雪姫」「ピノキオ」「ファンタジア」「バンビ」などのデザイン、独立後数々のアカデミー短編賞に輝く。
- ハンナ・バーベラ・プロダクション「ウイリアム・ハンナ&ジョセフ・バーベラ」(1957~2001) 「トムとジェリー」シリーズ。
UPAに代表されるリミテッドアニメはそれまでの垂直方向へのアニメの進化に対しての大きなカウンター(反撃)だった。
膨大な作画枚数と人員をかけることによる豪華なアニメーション。それはゲームでいうところのFF(ファイナルファンタジー)やメタルギアソリッドみたいなものを作る垂直の進化の方向性だ。(これはジョンのコメントで我がジャパニメーションに対する批判の一部である。)
彼等UPAが目指したものは何か?である。テレビが与えた条件はスケジュールの短縮と低製作費というところは、アメリカと日本とで変わりはないのだ。
UPAが残したものは二次元的デザインと動きの様式化と(演出)にあるというのが私の見立てだ。
震源地の大元になった作品があった。「Rooty Toot Toot」(UPA・1951)短編アニメ。ジョン・ハブリー(UPA設立メンバーの一人)。アメリカの有名な殺人バラード(民謡)「フランキーとジョニー」を元にした作品。愛人のジョニーに裏切られたフランキーは彼を射殺し、裁判にかけられるというブラックコメディ。ユーモアたっぷりに描いている大人のアニメである。
浮気・不倫・嫉妬・射殺・裁判。キャラそれぞれの証言と司法の皮肉などを含んだ異色のアニメであった。これは我が国で言えば芥川龍之介の「藪の中」であり、転じて「羅生門」は黒澤明(シナリオ・橋本忍)のテーマでもあった真実と事実についてだ。
はなしは少し横道にそれるが、blogの三回目で書いたこと。日テレの「コンピュートピア」をアニメでつくりプロデューサー牛山純一に言わせた「真実なんてものは幾らでもあるんだ」という言葉が思い出される。「コンピュートピア」だからこれが実現したらすばらしい世界になるだろう、というメインテーマに対して、私はすばらしいことがあったらそれに見合うだけのネガティブが起こるはずだ、という一面(私のみる真実)を描いて首になったのだ。AIが登場して間もないが、日本の現在・企業業績が空前の高さにも関わらず大学生たちの就職難が続いている真実も見のがせない事実であり、この先人口に見合うだけの仕事がなくなることはAI登場の副作用の一つと考えるべきことだろう。真実と事実問題の横道はここまで。
「Rooty Toot Toot」(UPA・1951)はリミテッドアニメ史の代表作の一つでありリミテッドアニメの完成・頂点の一つなのである。リミテッドアニメというと単に動きを省略した技術のように思われがちだが、「Rooty Toot Toot」とか幾つかのものにはそうした言い方はできないのだ。動きの量ではディズニーに及ばない。しかしキャラクターデザインと背景美術、それに演出の切れ味においては全く別の地平を切り開いていたのだ。まずはこの作品がそうだし、あるいはリミテッドアニメの影響をうけたディズニープロ在籍のウォード・キンボールがつくった「プカドン交響曲」や「火星の彼方」などを見るとそうではないことがよく分かる。画面構成、色彩、キャラクターデザイン、そして演技までもが様式化されているだけではないフルアニメもかくあるなり、とばかりの動きをもっていたのである。言い換えれば『少なく動かす』ことが目的ではなく、『どう見せるか』を追求した作品だったのだ。日本では特に「Rooty Toot Toot」はあまり紹介されなかった作品だが、リミテッドアニメを語るなら避けて通れないコンテンツなのである。


UPA作品。
- 「ジェラルド・マックボイン・ボイン」シリーズ(1951)
- 「近眼のマグー」シリーズ Mr. Magoo
マグー・シリーズ後期には「近眼のマグー・千夜一夜物語」(監督ジャック・キニー、劇場版長編、1959)が作られている。
アニメ界にセンセーショナルを引き起こしたUPAのリミテッドアニメはこの二つのシリーズのうち「マグーの千夜一夜物語」(1959)長編は作品の不成功と商業的不成功のもとで衰退していくのだった。不成功の原因として考えられるのは動きの様式化と物語性におけるリアリティにあったと私は思う。つまり劇場用長編は繰り返し見に行くものではないために様式の意味が馴染まないし、長編となればさらにキャラのリアリティは高い技術を要するものだからであるが、それに代わって台頭していくのが我がリミテッドアニメ、いわゆるジャパニメーションと皮肉な名称が与えられたものだった。
1960年代草月会館で海外の「実験映画」を紹介する事業がはじまり、中にリミテッドアニメが紹介され、キャラクターデザインの魅力からか、世界中のデザイナーたちがアニメに飛びついたと言う歴史があったし、日本においてもマンガ家の久里洋二氏、イラストレーターの真鍋博氏、グラフィックデザイナーの柳原良平氏など、あるいは若手デザイナー和田誠氏、横尾忠則氏など多くのデザイナーが強い関心を向けた経緯があったのだ。1970年代ではヨーロッパにおける共産圏諸国にまで広がり、中国とロシア以外の国にはリミテッドアニメが浸透したものだった。
久里氏はアニメーション「3人の会」を立ち上げ、毎年発表会をすることになるが、個人でつくるには量的な限界があり、さまざまのマンガ家やデザイナーたちに参加の呼びかけを行うのだった。
当時すでにアニメ「ある街角の物語」をやっていた手塚治虫氏にも強い呼びかけがなされていたのだ。そのころ私自身は東映に在籍していながら手塚師匠の「ある街角の物語」の手伝いをやっていたのだ。
「ある街角の物語」はキャラクターデザインにおいてはリミテッドアニメを十分意識して作られたものだったが、アニメにおいては様式化の意識は薄く、動かすべきところ2~3のカットはフルアニメでいこう、と手塚師匠は考えていたのだった。したがって「ある街角の物語」は実験映画のカテゴリーではなく、一般の映画館で上映したいと考えていたし、一部の映画館での上映ははたしている。
デザインの様式
キャラクターのデザインをするとき、どんな角度からみても矛盾がない立体を想像して描くものだが、このUPAの場合絵は画として面白ければいい。
立体である必要はなく直線と曲線をつかったいわばグラフィックデザインというか、最小限度の線を用いた近代主義的デザインだったのである。背景も同じく抽象画とでもいえるものだった。
このUPAのリミテッド作品の影響はすさまじく、ディズニープロのエース、ウォード・キンボール(1914~2002)によるプカドン交響曲(1953)シネマスコープサイズの劇場版はリミテッド方式のスタイルを踏襲しながらも、アカデミー短編賞をもらっている。
なおそれ以前にもキンボールはリミテッド方式を取り入れながら、「Man and the Moon」(1955)、「火星とその彼方」(1957)はテレビ版リミテッドアニメの概念を外したとしても素晴らしいものだったのだ。後者2本はカラーテレビが無い時代に放送されているので、私はカラー作品なのかどうかは知らないままだったし、現在でも知らないのだ。
『50年ほど前「LIFE・ライフ」というアメリカの雑誌に「Rooty Toot Toot」の画像が12点ほど載ったものを私は保有している。ここでは何点かを貼り付けて紹介したが、全点となると著作権の問題があるのでお見せできないのが残念なのだ。興味のある方はSNSでも探して見ていただけたら幸いである。尚キンボール氏の「火星の彼方」の方は20枚ほど私がスケッチしたものを持っているので4~5枚ほどここに貼り付けて紹介する。なお興味のある人はSNSでオリジナルを探して見ていただきたいと思うのだが、私も探しているのだが「Man and the Moon」と「火星とその彼方」はどうしても見つけられないのだ。』





動きの様式・パターン
様式というと難しいというものがいる。様式とはパターンだと言えばわかるだろう。我国の演劇・芝居でいえば歌舞伎と能がある。中国では京劇だ。
これらの芝居は化粧や着物、そして動き方はパターンなのだ。見栄を切るとか、たたらを踏む、飛び六方、とかは歩き方、走り方まで独特のパターンであり、見る人との約束された動きなのだ。
映画なら空間を見せようと思えば幾らでも見せることができるのだが劇・お芝居は舞台の大きさに限界があるので、すごいスピードで走ったらあっという間に舞台の袖に消えてしまう。
観客は少しの会話でもやっていたら、キャラはいつのまにか消えていた、という事態を招きかねないのだ。そこで舞台から急いで去るにしてもゆっくり時間をかけて去る、という動きの様式がつくられるのだった。
ミッキーマウスでも走り出す前に両肘を張って足は進む方向にくるくる回転させながら進行方向に向かい2~3コマで走り去る。という動きをもっている。
「トムとジェリー」なども同じ動きをもっている。もっているといってもアニメーターの誰かが創り出した動きのパターンなのだが著作権に厳格なアメリカでも動きに著作権はないらしく誰でもがこれを使っているようである。これもパターンであり様式と言える動きなのだ。制限とか制約というものが新しい動きとか何かを生み出す元でもあるのだった。
音響に合わせて見栄を切る、とは映画でいえばクローズアップというテクと同じ効果である。
歌舞伎でも相撲でも同じだと思うのだが、昔の客席は竹の柵で一坪ほど毎に区切られていて、これを升席という。升席は年間で予約するシステムがあったようだ。
升席は交流のためとかビジネスを兼ねてもいて食事もお酒も出ていたのだ、升席は社交場でもあって全員が真剣に舞台に向かって座るわけでもなく、升席に招待する側される側が対面しているので、芝居のクライマックス時にはどどーんと音響の知らせとともに見栄を切った方に視線を向けて掛け声をとる、というスタイルだったのだ。こうしたスタイルはすべてある制約の中から生まれてくるものなのであろう。
カリフォルニアで生まれたリミテッドアニメは、僅か1951~1959年の間アメリカで咲いた唯一の芸術様式と言えるものだったかも知れないのだ。日本の伝統芸能には毎年数十億円の助成金が出ているように、アメリカとしてなんとか残すべきものだったと思うのだがメディアの事柄、そうもいかなかっただろうと残念でならない。
次回は「リミテッドアニメとジャパニメーションのターニングポイント」として書いてみたい。
もう7月だ。
アニメオタクからアニメ制作へ
あるとき私は師匠によばれて「月さんなにかショートアニメを作らないか」というお誘いと「俺がプロデュースするから何か作ってよ」というお話しだった。まあここも西遊記のごとく師匠の代理参加のおもむきだったのだろう。
当時の私はアニメオタクではあったが、具体的に何かを創りたいという思いは持っていなかったのだが、欧米での傾向はUPA初期のリミテッドアニメの影響と実験映画の流れがあることも知っていたし、イギリスのジョン・ハラスは「動物農場」(フルアニメ)という子供向けとはとてもいえない分野に踏み入っていたこともニュースとしても知っていた。
思案の末出てきたのは、東映という会社における労働組合問題であった。東映と言う会社は労働組合の幹部が役職の課長になり、部長になるという不思議なルールがあるというはなし(事実)があった。「なんじゃそれ」というのが私のテーマになり師匠の了解を得て絵コンテを始めたものだった。
タイトルは「タバコと灰」と付けた。それはポーランドの映画で邦題「灰とダイヤモンド」(1958・監督アンジェイ・ワイダ)という映画に鮮烈な印象を受けていたからだが「タバコと灰」という題名は、リスペクトをこめた洒落だったのだ。それから一年後自主製作として「新・天地創造(60秒)」(1969)という超ショートアニメをつくったところ「ショートフィルム・フェスティバル」というのがポーランドのクラコーにあるから出展したらどうかと人のお勧めがあり、ではと出展したところ思いもよらずグランプリ(1969)を頂戴したのだが、なんと偶然か奇跡というか審査委員長が尊敬するアンジェイ・ワイダ監督だったということであったのだ。
ショートフィルムには基準があってマックス30分以下、私は当時CMをよくつくっていて、日本のCMは60秒がマックス、15秒編が90%だ。だからすべてのCMのプリントは16㎜のリール(直径7㎝・マックス1分)に巻かれている。私もフェスティバル出展時このリールで送っていた。
グランプリ発表のさい、舞台上のワイダ氏は「今年度のグランプリはこの作品だー」とマジシャンのように親指と人差し指でポケットから私の作品フィルムのリールを取り出し差し上げたそうである。会場は大爆笑だったという。
といって私は賞など頂けるとは考えもしなかったので現地に居合わせなかったのだ。これはポーランドに留学していた学生から聞いたはなしだった。翌年には急ぎ映画祭に出席したのだが監督は海外に出ていてご都合つかず、お会いできなかったのが残念至極だったというはなしなのだ。
しかしポーランド唯一の国際映画祭なのに行事の期間に海外に出るとは、と尋ねたところこのクラコー・ショートフィルム・フェスティバルの特徴なのだが、毎回同じ審査員が2度審査員はやれないこと、作品審査発表の当日まで誰が審査をやっているかを公表しないこと、が特徴なのだという。ちなみに過去の審査員として日本人では佐藤忠男氏と川喜多かしこ氏のお二人が勤められたことがあるという。なるほど、ということは他のコンペでは国の有名人とか偉い人が審査の要職を占めている、ということが窺われるのだった。
手塚師匠プロデュースの「タバコと灰」は東京港区の草月会館における実験映画上映の流れの中で上映されたのである。マンガ家、デザイナー、イラストレーターなど多彩な分野の方々の中に入れてもらい、パンフレットには当時東京オリンピックのポスターデザインを手がけたデザイナー亀倉雄策氏のコメントに取り上げて頂いてとても嬉しかった思い出がある。
しかし虫プロ倒産と同時にプリントが散逸してしまったと聞いていたのだが、近年ネガが見つかりDVDにコピーされたものを手塚プロの清水氏より頂戴しているのだが、実験映画のジャンルに入るものではないしリミテッドアニメの影響すらないことは自覚していたものである。
ここまで書いてきて自分の作品の製作年が頭の中でごちゃごちゃになっていることに気がついたので、整理してみたいと思いウィキペディアなどで調べてみるのだが、ここでもあまり正確ではないらしいことに気がつくのである。
私がリミテッドアニメに影響をうけて創ったアニメは東映動画における「ねずみの嫁入り」(1962年頃)であり私の処女作になるはずである。これは当時「安寿と厨子王丸」(1961)の製作が終わり「シンドバットの冒険」(1962)が始まる頃に創った作品だから、この年あたりのはずだがウィキペディアでは1979年となっている。「新・天地創造」は1969年であり、「狼少年ケン」が1965年なので、「タバコと灰」はそれ以前の1964年頃ではないかと思う。
ポーランド・「クラコー・ショート・フィルム・フェスティバル」の帰り道ちょうどよく、フランスのアヌシー・アニメーション・フェスティバルに立ち寄り、ここにも2本の作品「新・天地創造」「沙羅双樹の花の色」を携えて参加している。ここではアヌシー以外のコンクールに出展したものは対象外とされ、コンクールの正式参加は認められなかったが、上映はされてもらったのだった。
ここで嬉しかったのはパーティに招待して頂き、ポール・グリモア氏をはじめとしてフランソワ・ラギオニー氏、なんとアレクサンドル・アレクセイエフ氏など有名作家人にお会いしたというか、お一人一人を紹介して頂いたことである。ご紹介の労はグリモア氏でありとりわけグリモア氏には「君の作品はディズニーにも誰にも似ていない」と嬉しい評価を頂いたことであった。
アヌシーに入って間もなく最初にあった人は片言の日本語ができる雑誌の編集者マックス・テシエ氏だった。彼は私にヌーベルバーグの騎手といわれた「大島渚監督をどう思うか」と聞いてきた。なんじゃいこいつはと思いつつ「関心はないね」と答えたものだ。しかし日本びいきの若い編集者はその後たびたび日本に来るし長いお付き合いとなる男だったが、いつの間にかカンヌ映画祭のディレクターかプロデューサーになり、最後に会ったのは黒沢明監督にカンヌ映画祭特別賞を贈る招聘のための来日だった。最後としたのは昨年彼は亡くなったようだと友人のクロード・ヴルエン氏からのメールで知ったからだった。そのクロード氏もまたこの映画祭で出会った日本語初心者で作家評論家のカナダ人、日本名・苦労人ヴルエン氏からであったのだ。テシエ氏は独身だったから果たして誰に弔電をだせばいいのか分からず仕舞いの現在なのである。
グリモア氏には「フェスが終わったらパリのアトリエに来ないか」とのお誘いを頂き、クロード氏を通訳としてまっしぐらにグリモアスタジオに向かった。綺麗なスタジオだったが驚いたのはアニメを撮影するカメラだった。博物館に展示されるようなフィルモという古いカメラを使い、ホームセンターが売るアングルで組み立てた自前の撮影台だったのだ。
同じころの日本の撮影台は5面分割左右上下スライド式で、カメラは上下ハンドル・トラック型でカメラはミッチェルを東映動画社、虫プロのすべてが同じものだったのだ。
これを見てカメラやカメラ台が古かろうと、できた映像が素晴らしければなんの問題もないことを教えてもらったのだ。帰国後カメラのボレックスを買いアングルを買って組み立て、自分のアニメは自分一人で撮ってきたのであった。
グリモア氏はフランスで働かないかというお話と、半年間アテネフランセでの学費も出してやると、ありがたいお話しを頂いたものだったが、熟慮した末の結論は遠慮してしまった。
なぜと人にも聞かれるのだが、その時代70年代の日本は大気汚染などが進んでいたのだが、言葉にできない+-の熱気というかポテンシャルが横溢していたのだ。それに比べれば欧州には安定と豊かさはあったが、それが感じられなかったし、ものづくりを目指す者には根無し草になって感度を失う心配をしたからだった。