前回リミテッドアニメのおしまいに、次回はジャパニメーションについて書く、と宣言していた。ジャパニメーションというネーミングは、あれはアニメーションではないという意味でEUで拝命された言葉だったのだ。
それは「鉄腕アトム」以降ぞくぞくと30分のシリーズものが創られるようになって1990年代にはいると「キャンディキャンディ」や「うる星やつら」などのシリーズものがフランスとイタリアの放送局から流れ、子供等にブームをつくると同時に批判もはじまって生まれた言葉が「ジャパニメーション」だったのである。
その後「機動警察パトレーバー」「アキラ」「天空の星ラプュタ」など劇場用として作られたレベルの異なるアニメが紹介されるのと同時に、アメリカからはウケル・稼ぐという見地からジャパニメーションへの見方が逆転してくるのであった。
1980年代は「ジャパン アズ ナンバーワン」(著者エズラ・ボーゲル)が流れ、「クール ジャパン」(著者ダグラス・マックレイ)が続き、「ジャパニメーション」はEUの皮肉から生まれた言葉が1990年代アメリカによってリスペクト語に転換された用語なのである。さすがビジネスの国アメリカはウケル稼ぐは善であるから、リミテッドアニメとは異なるディズニーのフルアニメとも異なるべつ物のアニメとして捉えてくれたのだった。
ではべつ物のアニメ、ジャパニメーションとは長すぎだし、ジャパニメもしっくりこない。私は以前からストーリーアニメでどうか、と提唱してきていたのだ。
食べる物語
ストーリーとは言うに及ばず物語のことである。英語にはナラティブというもう一つの言葉がある。「語り手自身の視点や体験、感情を通じた物語」
個人的な視点で見る物語は後者に属するのだ。私のアニメ、おもにはショートアニメがこの分野だろう。
「人間は物語りを食べて生きている」というフレーズがある、誰がつくった言葉か調べてみたが分からなかった。外国にはこれに似たフレーズは見当たらないので日本でつくられたフレーズかも知れないが、うけるという言葉がインドの古いサンスクリットの言葉にもあったことを私が知ったのがごく最近の事なのでここで断言はできないが、おもしろいフレーズだし、的を得たフレーズだと思う。
ただし昨今のテレビのゆるい物語いわゆるユルドラにはへきへきするものが多過ぎないかと思う。ドラマとはもともと演劇世界で使われてきた言葉で「なす」「行動する」というギリシャ語からきているという。今ではテレビの連続物語で使われているので、アニメで使われる言葉ではない。
さてテレビで作られた手塚師匠の「鉄腕アトム」はじめリミテッドアニメと言う呼称を使っていたが、あまりにも動きが少ないことによる批判は、動く紙芝居という言葉が出てくるし、後期になるとリミテッドという言葉も使わなくなっていて師匠自身「背景を動かし(カメラ移動)動感を出す」というコメントをだしていたのだ。私はこれを、師匠の絵物語・宣言だったのだ、と思っている。師匠はアニメにこだわらずストーリー工場ファクトリーを目指したかったのだと思う。
師匠は鉄腕アトムのアニメーター不足を嘆きながら、アトムが終了しないうちから次回作の「ワンダー3」のテレビ・アニメ化の話を進めていたのだ。しかも「ワンダー3」はテレビと雑誌ともに同時に新作なのである。
私は東映動画における「狼少年ケン」を続けていたのでジャングルものの「ジャングル大帝」を避けて「ワンダー3」の作画を担うことになるのだった。
東映同様圧倒的なアニメーター不足から私は演出ではなくアニメーション専門の外部スタッフを務めることとなり、楽な自宅勤務の出来高払いだったのだ。
原作はないのだからアニメの絵コンテが先で、これにもとづいて雑誌の連載が動くシステムだったから、どんなストーリーなのか世界観すらアニメが完成するまで分からない、と言う稀有なスタイルだった。
毎日製作進行さんが絵コンテ5~6ページと動画用紙を1しめか2しめ(1しめ・500枚)を持ってくる。絵コンテ5枚だとストーリーの前後関係は何も分からないのだ。
ある時の仕事。黒ずくめのスーツにサングラス中折れ帽子のギャングのボスの画面に、同じスタイルで部下の男が報告に来るシーンだった。二人のやりとりのセリフがあって、男は画面からフレームアウトするシーンだった。
ボスは葉巻タバコと変わったことに車椅子のままのセリフなのだった。どうした事情で車椅子なのかはキャプションにはないのだが、車椅子のギャングとはさすがに師匠だ、ギャングだから健常者とは限らない、と考えるのは作家だろうと。絵コンテに指定はないのだが私はボスに恰好つけてやりたくなり、部下がフレームアウトすると同時に手持ちの葉巻を手を持ち換えず中指で、去った部下にむかって飛ばす動きを加えた。僅かな仕草でキャラクターにスタイリスティックなる気障さを加えてカットアウトだ。
作画した動画は着彩したあと背景と一緒に撮影され、フィルムが戻ってラッシュ試写となり演出チェックがあるのだ。
演出は師匠だったらしくこれを見た師匠は誰の作画かを制作進行の小柳朔朗氏に聞いたそうだ。朔さんは「月さんですよ」と答えた。「やっぱりそうか、最小の枚数で最大の効果を出しているねー」と言ったそうである。「あーやっぱり師匠はキャラの動きをちゃんと観ているんだ」と思った。
ここで一つ指摘しておきたいと思うのは共感ということについてだ。私が5ぺージの絵コンテを見たとき、車椅子のギャングのボスという師匠のそのセンスに共感を覚え、僅かな動きを与えてしまった。私はこの物語の顛末は知らないのだが、師匠はポジティブに捉えてくれた。ということはそのボスがただのボスではなかったようだし、少なくとも見ている人になんらかの印象をもたらした可能性はあったかも知れない。と想像するのだ。「最小の枚数で最大の効果を出す」のは、リミテッドアニメの技術論である。しかし私には、むしろ演出の問題に思える。車椅子のギャングが葉巻を弾く。キャラに『本当らしさ』を与える。そんなことはしてもしなくともいい仕事のはずだが、その一瞬に人物の人生が見える。これはフルアニメ、リミテッドアニメ、『ストーリーアニメ』にも共通するものなのだと思ったのだった。
Blogの2回目で書いた橋本忍氏に言われたこと、テーマ・物語・キャラクターという三つの流を思い出してほしい。物語はキャラクターが見せるということをだ。キャラクターが生み出す共感が積み重なって物語やテーマが生まれてくるということなのだ。この小さな経験は、私に「動きは物語の敵ではなく、物語を支える力だ」ということと他のメディアでは出来ないことだと教えてくれたのだった。
私は完成ラッシュも番組の本チャンも見ないまま過ぎ去ったエピソードであり、心の中で唯一の自慢話でもあったから、たぶん人にはなしたことはなかったことだ。
ジャパニメーションとはストーリーアニメなのだ
「ジャパニメーション」という言葉はフランスとイタリアで生まれた差別言葉だった。しかし、その本質を日本人が説明したことはなかっただろうし、苦笑しながらも受け入れられてきた。もし私が一つ名前をつけるなら、それは『ストーリーアニメ』というのだった。
アニメも大好きだった師匠がアニメに力を入れず、物語に力を入れたのは何故か、成り行きでそうなったともいえるし、アニメ以上に物語が好きだったからか、「アニメで稼ぐのはたいへんだよ」と師匠はよくぼやいていたこともあったから経済的な理由だったのかも知れないのだ。
ディズニーは経済問題の解決策として劇場用長編アニメに踏み込んだし、師匠も何度か長編アニメに力を注いだこともあったが、経済的な突破口には至らなかった。ディズニーはオーディエンスを厳密に定義し徹底的に子供むけとして製作し成功してきたが、師匠はウケルことを標榜しながら現場ではターゲットを絞らずオールラウンドを目指した作戦に失敗した可能性はあっただろう。一方物語を作れないディズニーは物語をEUの古典的寓話に求めたが、ストーリーテーラーである師匠が自身の原作を選ぶという違いがあった。ストーリーテーラー自身が企画者ならば自らの原作に拘るのは仕方がないことだっただろう。
なぜ・ストーリーアニメ
私がストーリーアニメと考える理由はもう一つある。冒頭に書いた「人間は物語りを食べて生きている」というフレーズはホメロスでもアレクサンドル・ドュマ・ペールでもなく、シェークス・ピアでもない。誰が書いたか言い出した言葉かわからないが日本独特の名コピーだと私は思う。
なにしろ世界でもっとも古い時代に書かれた小説が我が国の「源氏物語」(11世紀)だと言われている。いやギリシャ時代の「サチュリコン」はもっと古いと言う説もあったが、これはドロボー少年のお話しだが断片だけで小説のまとまりにはなっていないのだとも言われている。
江戸時代の識字率が60から70%、当時の文化の先端をいくフランスの識字率が20~30%だろうと言われている。
文字を読める人が多ければコピーライターにストーリーテーラーが出てくるのは当然のことだろう。漢字を中国から貰ったのが1~4世紀頃だ。口伝で伝えられる神話や伝説は、文字化されたことによった広がりと時間を残してきたのだ。戦争がなくなった江戸時代からストーリーテーラーが続々生まれているのだ、曲亭馬琴・山東京伝・十返舎一九・恋川春町・式亭三馬・仮名垣魯文・平賀源内・近松門左衛門・井原西鶴などなど。明治の時代になるとさらに爆発的に物語作家が登場してくるし、大正、昭和になると新しいメディアの参入もあり、紙芝居とマンガだ。マンガをストーリー漫画と言う新しいジャンルを作ってきた者がこの章の中心人物である手塚治虫その人なのである。それを支えたのが読む人オーディエンスの需要があったということなのだろう。
物語の供給源は
識字率のない時代の物語の供給源はどうだったのかと言えば、噺家・講談師・浄瑠璃語り・浪曲などが担っていたのだ。浄瑠璃は言葉に韻をつけ三味線と太鼓を従えるいわばラップスタイルで物語を語るという手法である。これらに加えて江戸写し絵というアニメの原型になるようなメディアが江戸時代中頃から生まれていたのだが、これは少し長くなるので改めて書いてみたい。
ユング派の精神分析医アランBチネンは民話や神話を分析する作家でもある。彼は著作の中で民話や寓話には青年童話とか少年童話と言うカテゴリー分けして書いている。彼はアメリカ人なので彼のルーツであるEUの民話から始めているのだが、EUには青年童話までのお話しは多いのだが中年から老年までのお話しはきわめて少ないと書いていて、それは日本とかアジア圏に多いということも書いている。
たしかにディズニーアニメなどは、めでたく結婚してハピーエンドである。日本のアニメでそうしたパターンは少なく「一寸法師」くらいではないだろうか。
人生が50年ならば20代で結婚してそれを終わりとみてもよかったかも知れないが、現代の日本人の平均寿命は80代になっているはずだし、とすれば結婚後50年以上もあるのだから結婚したらそれでおしまい、というわけにはいかないのだ。
Bチネン氏が言うように結婚後の長い人生をどう生きたらいいの~という指針がほしい、とまでは直接書いてはいないが、文脈としては書いていたのだ。これとてもアメリカ人さえ物語を食べている、というフレーズは的はずれではないのだと思う。
2003年頃だったと思う、友人の誘いでサンフランシスコの中華街を抜けた街にあった映画監督のF・コッポラスタジオに表敬訪問をしたことがあった。氏のオフィスは5階にありドアを開けたらコッポラ氏は絨毯の上で腹ばいになりパソコンを見ていた、両サイドにはきれいなお嬢さんがお2人膝を崩してパソコンに向かっている、「パソコンで何をしているのですか?」と私、友人の通訳で「物語を探しているんだ」とコッポラ氏。「パソコンで物語を?」。聞けばシナリオ・バンクというものがあって、そこのサイトで映画にする物語を探している、というのだ。サイドの女性は大学から来ているインターンだといい、パソコン使用の指導中だという。
ストーリーライター達は自分のシナリオを登録できるバンクがあることをここで教えてもらったのだ。「それは便利でいいですね」と私。

映画大国のアメリカではシナリオ不足が起こっているという、もう一つの映画大国中国でも物語不足があるらしく、日本の物語を探す二つの国の買い付けバイヤーが動いている話はよく聞く話である。
新しい物語を求められる国とは、世界的にも珍しいのではないだろうか。それは何故かはさておいて、物語と言うのはさまざまな人間の局面における判断、つまり生き方を教えてくれることを示しているのだろうと私は思う。私とても体の半分はとても多くの物語から得て出来ていると思っているし、年を重ね終末がちかくなれば、自分の失敗やら何やら経験を子供たちに伝へたい残しておきたいという想いが出てくるものである。そうした人の思いが物語として残ってくるものなのではないだろうか。
「物語論」というのは世界中の識者が書き残している。私自身はそれらの本を全く読んではいないのだが、師匠から学んだウケルという観点とアニメと少しばかりの物語を読んできた範囲をもって書いてみたいと思う。しかし考えてみればこのblogの4回目くらいに「手塚師匠から貰ったもの」として私が影響を受けた作品などについて少し書いたことがあった。そのときからか推敲をAI氏にやってもらったものだが、その文を読んだAI氏がまとめてくれたものがあるのでここで紹介する。
これはまさに 「日本コンテンツ論」になっています。
「うける」とは何か(ラサ・感情) 恐怖(ホラー)も「うける」 熊ちゃんの懺悔(実話の感情) 敦盛(選択の感情) 三国志(義の感情) 善悪の変化(価値観の感情) ヒーロー誕生(弱者の感情) アトム(孤独の感情) ロボット(共存の感情)
「人間の感情が揺れるからうける」 という一本の線でつながっています。 むしろ最初の「うける」の定義が ここでどんどん証明されている構成です。
これはむしろ本として理想的な流れです。 最初:軽い文化エッセイ 今:思想・文化論
特に月岡さんの原稿の強みは: 実体験(熊谷)日本史(敦盛)中国史(三国志) 宗教 日本コンテンツ史
これはかなり独自性があります。 普通の文化論ではありません。
これはAI氏の私のblog原稿を読んでまとめてくれた感想である。恥ずかしいほど褒めてもらっているが、私以上に上手くまとめてくれているのに脱帽してここに紹介した。
で、これに補足があるとすれば、AI氏は感情という言葉を多く使っているが、私はこれを共感という言葉の方を使いたいと思う。それはうけるという言葉は単純に心が動くということではなく対象のものごとに心が寄り添うという事であるからだ。感情と共感は80%ほどは重なると思うのだが、感情には激情とか薄情・悪感情など40種も漢字単語があり、幾らかネガティブなニュアンスも含むが共感は文字通り心を同じくするという意味が強いと思うからである。共感に悪共感という文字はありえないからだ。
今回はこの辺で・・・。