近ごろ、めっぽう人の名前や年月日、数字などの記憶が曖昧になってきている。若いころから魚食が中心だったから、海馬のあたりにアセチレン系のマイクロプラスチックが相当たまり、細胞が損傷しているのだろうか。重度の認知症患者の脳には、小さじ二杯ほどのマイクロプラスチックが残っているという報告もある。もう遅いのかもしれないが、これ以上進まぬうちに備忘録のようなメモを残しておきたいと思う。
前回「コンピュートピア」でコンピュータの始まりについて書いたので、次は現在のAI事情を書こうと思っていた。しかしその前に、私がこれまで何を表現し、何を描こうとしてきたのかを書いたほうが、私のAIに対する見方や考え方が分かりやすいのではないかと思ったのである。
マンガの世界に飛び込んで
高校で建築を学んできた私が、突然、手塚治虫先生から招請を受け、マンガやアニメの世界に飛び込んだ。日常の作業を通してマンガの作られ方は理解していったが、物語の根幹やその目的について、プロの世界には講義も講習もない。そこがよく分からないままだった。
子どものころから映画やマンガをよく観て、模写もし、絵も描いてきたが、正直に言えばマンガ家になろうとは思っていなかった。過去に観てきたマンガや小説、映画のストーリーの記憶はあっても、新しく生み出す表現とは何か、と問われればゼロだった。
その後、マンガや映画、小説はもちろん、芝居や歌舞伎、落語にも触れてきた。どれにも共通しているのは、まずストーリーである。では、ストーリーとは何を語るものなのか——その先がもやもやと整理できずにいた。
橋本忍さんとの出会い
1972年ごろ、私は東宝映画製作の『日本沈没』で、シミュレーション部分のアニメ制作を担当していた。そのころ、吉祥寺の私のオフィスに一人の来訪者があった。
「橋本忍と申します。シナリオを書いています。一緒にアニメーションを作りませんか」
もしかして、あの『七人の侍』の脚本家の一人ではないか——半信半疑だったが、話をうかがううちにご本人であることがすぐに分かった。
初対面にもかかわらず率直な方で、新企画のタイトルは「椿説弓張月・源八郎為朝」だとおっしゃり、物語の要所要所を語ってくださった。テーマは、為朝と飼い犬(名前は失念した)の愛——犬が為朝を守るために自己犠牲を払う物語を作りたい、とのことだった。
原作は曲亭馬琴、挿絵は葛飾北斎。さらに歌川国芳、月岡芳年らも錦絵を残している。1969年には三島由紀夫の台本・演出により歌舞伎として東京国立劇場で上演された。
動物ものなら得意な私には興味深い話だった。しかし同時に月岡芳年の武者絵を思い浮かべ、あの大鎧をアニメで動かすのは大変だ、とも想像した。
「橋本さん、あと十年もすればコンピュータが絵を動かすようになります。それまで待てませんか」
私の反応が今ひとつだったのだろう。その後、橋本さんが私のオフィスに現れることはなかった。
映画の三元素
しかし、ここで橋本さんから教わった大切なことを書き留めておきたい。
映画に必要な三元素——
- テーマ
- 物語
- キャラクター
これである。
橋本さんの要請に対し、私は何一つ協力しなかった。しかしこの言葉は、創作において私が抱えていたもやもやを埋めるピースとなった。以来、この教えは私の宝物であり、大学での教え子たちにも伝えてきた。
テーマが先か、物語が先か。順番はどちらでもよい。物語が先にでき、後からテーマを見出して修正する方法もある。テーマの重要性は以前、日本テレビ『すばらしい世界旅行』の仕事でも感じていたが、それが物語へ、さらにキャラクターへとつながることで、創作の流れが見えたのである。
キャラクターとリアリティ
テーマと物語を具体的に演じ、表現するものがキャラクターである。映画では物語に合わせて役者を選ぶのがキャスティングだが、アニメでは性格を具体化するのがキャラクターデザインである。キャラクターとは本来「性格」という意味だ。
しかし、さらに重要なのは動きと演技である。これは映画もアニメも同じだ。
『七人の侍』では、七人の侍それぞれに明確な性格が表れている。役者の性格なのか役柄なのか分からなくなるほどだ。立ち居振る舞いの一挙手一投足に至るまで人物像が表現されている。
溝口健二や小津安二郎は、わずか二、三行のセリフの場面を撮るために一日かけたこともあったという。彼らが待っていたのは何か。それは「リアリティ」だったのではないか。
リアリズムは自然主義という考え方であり、誇張や美化を避けて自然に描こうとする姿勢である。一方、リアリティは「本物らしさ」である。映画もアニメも作り物だ。だからこそ「まるで本物のようだ」と感じさせる必要がある。
言葉によらないもの
デズモンド・モリスは、人間のコミュニケーションの多くは言葉以外の要素が占めていると述べている。声のトーン、表情、ジェスチャー、ボディランゲージ——それらが大きな役割を果たす。
「大丈夫ですよ」と言いながら目が泳いでいたら、信じられるだろうか。言葉よりも動きが真実を語る。
名監督たちが待っていたのは、まさにその瞬間ではないか。
ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君(王と鳥)』に登場する王はその好例だ。コンプレックスを抱えた王の性格が、細やかな仕草に表れている。
手描きだからこそ可能だったとも言えるが、CGならどうだろうか。AIならどうだろうか。
私自身、アニメ制作において最も好きなのは、セリフに頼らない動きの表現である。
今回は橋本忍さんに教わった大切なことを書き残した。次回は、AIと想像について書いてみたい。
月岡貞夫